が分った。きょうは既に一杯引っ掛けて来たらしく、手附や話振にどこやら酔態があるようにも疑われる。そのうちに浴客がたて込んできたので、鶴見はそこそこに湯から上った。もっと詳しく話を聞けば同気相求めて佳境に入《い》ったでもあろうにと、それなりになったのを、口惜《くちお》しくも思っている。
泡盛の前話はそれで終る。しかるに鶴見の記憶は聯想《れんそう》の作用を起して、この時はからずも往年の親友の一人が鮮やかな姿を取って意識の表に押し出される。ここに泡盛の後話が誕生する。
その親友の一人がにこにこと笑って、「おい居るか」といって不遠慮にはいって来る。鶴見がここで親友といっているのは岩野泡鳴《いわのほうめい》のことである。
泡鳴はいきなり、「これから一風呂浴びに行こう。どこか近所に銭湯があるだろう。」
それはやはり暑さの烈《はげ》しい夏の午後のことであった。
鶴見は泡鳴を案内して行きつけの風呂屋に出掛けた。能登湯《のとゆ》といって、その頃は入口の欄間に五色の硝子《ガラス》が装われていた。それだけやっと近代化した伝統のある家で、浅葱《あさぎ》の暖簾《のれん》を昔ながらにまだ懸けていたかと思う。そこの若主人は鶴見の学校友達であった。
鶴見は湯につかりながら、もとはこの湯槽の前を絵板が嵌《は》め込みになっていて、そのために湯槽はその高さの半《なかば》を覆われて、外から内を見透すことは出来ない。絵板はあくどい彩具で塗られている。それを柘榴口《ざくろぐち》といって、そこを潜《くぐ》って、足掛の踏段《ふみだん》を上って、湯槽にはいるのである。自然湯槽は高くなっている。今のように低くなったのを温泉といっていた。そんなことを想いだすままに泡鳴に説明した。また鶴見の稚《おさな》かった時分には、表《おもて》二階に意気な婆あさんがいて、折々三味線の音じめが聞える。町内の若衆《わかいしゅ》を相手に常磐津《ときわず》でも浚《さら》っていたのだろう。湯女《ゆな》の後身かも知れない。そのこともついでにいわずにはおかなかった。
鶴見が泡鳴を案内した風呂屋はそういういわれのあるところであった。
しかし鶴見に取って問題は別なところにあった。泡鳴は何故だしぬけに鶴見を銭湯に案内させたか。勿論《もちろん》そこには、日盛りを歩いて来て汗をかいた。その汗を洗い落しに行くというだけの理由はある。それは認めて好い。むしろ分り過ぎるくらい分っているが、それだけでは納得されない。泡鳴の日常を知るものならば、何が彼を唐突《とうとつ》な行動に導くか、その行動の結果がどのように彼の生涯を彩《いろど》るか、それについての推量はほぼつくことである。泡鳴には常に動いて止まぬ好奇心がある。その発作は自然でもあり、また異常でもある。この矛盾を即座に生ずる烈しい衝動が、その力を以て混同する。そこに泡鳴の行動が彗星の如く出現し発光する。彼に対する批評はいつでもこの衝動的な実行に向けられる。一度念頭に湧き上ったものを、善《よ》くも悪《あ》しくも、直ちに実行する。泡鳴の生活はそれほどまでに簡単である。他人の批評はそれでも気にしていたが、決してそれによって動かされることもなかった。彼の経験は、とにもかくにも、そういうような道をたどって累積せられたのである。
泡鳴が衝動的行動を取るとき、もとよりそこに一分の余裕を持っていたはずはない。ただ彼の作家かたぎが、彼をして後からその行動を豊富な経験として客観せしめた。そうでなければ、彼の生涯は悲壮な色を極度に帯びていたに違いない。しかるに彼は存外楽観的であった。それが慣習となって、その効果が一面|抜目《ぬけめ》がなく如才のない性格を彼に附与した。それがために時としては狡猾《こうかつ》とさえ思われた。
泡鳴はいつも物質に惑溺《わくでき》していて、その惑溺のうちに恋愛と神性とを求めていた。彼は暫くも傍観者として立ってはいられなかった。人生に対する観察はいよいよ手馴らされ、皮肉になり、それと共に彼の好奇心は弥《いや》が上にも昂進して行った。
鶴見はこの頃になって、泡鳴をバルザックに比較して考えて見るようになった。両者の間に相似点がある。押詰めて検討して行けばおもしろかろうなどと思っている。
泡鳴の晩年にはそういう状態が既に熟していたが、鶴見を銭湯に促がした時分の泡鳴にも早くそれらの傾向は現われていたのである。好奇の心を養うためには犠牲を要する。その犠牲に手を伸《のば》す貪婪《どんらん》さを彼ぐらい露骨に示したものも少かろう。鶴見が銭湯に誘《さそ》われたのを犠牲と呼ぶには当らないが、どういうものか、そういうような気持がふと心のなかを掠《かす》めて行った。僻目《ひがめ》であろうかと恐れたが、それかといって、その疑を払拭する反証をも捉え得なかった。
鶴見は気張
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