かに、かすかに、香に立ってきこえてくるのであろう。
工作を終った上人とその弟子は、その畑地を見わたして快心のえみをたたえている。
「上人さま、早いものでございます。ご覧ください。あそこあたりはもう芽を吹きだしてまいりました。」
「おお、そうか」と上人はいった。「種も粒選《つぶよ》りであったし、日もよかったし、気分もすぐれていたし、それにここの畑土は肥えているのだ。三拍子も四拍子も揃っていたからだな。」ゆっくりした口調である。
喜海は「ごきげんで結構でございます。これならきっと日本一の茶畑になりましょう。地味《ちみ》もよほどよろしいようでございます」といってよろこんでいる。
「わしはよく夢ばかり見るが、その中でもきょうの夢は夢の中の夢のような気がするな。わしがふだんよくよく注意してそちに教えていた、あの海印三昧だがな。その海印三昧がこの畑地の鏡のおもてに実現しておるのじゃ。華厳の教理に関して、わしがむずかしいことばかり言っていたように、喜海、そちは思っていたろう。そんなことではいけないのだ。まずこの畑をようく見極めること。それが修行だ。いいか。」
「はい。仰せのとおりに一所懸命になって、見きわめておりますところでございます。」
「よし、よし。もう一遍見わたすこと。」
喜海は上人からそういわれて丹念に隅から隅まで見わたした。たった今|穎被《かいわ》れ葉《ば》を出したかと思ったのが、もう二、三寸も伸びて本葉《もとは》を開いている。この分ならばやがて葉も摘《つ》めよう。花も咲こう、実もなろう。
「栄西禅師《えいさいぜんじ》さまもさぞおよろこびでしょう。」喜海はそういって上人を仰ぎみる。
「よくいった、喜海。わしもこれで禅師の賜物に酬いることができたのだ。」
上人はそういってしばらく考えていて、そしてこういい足した。
「おれは信の種を播いたのだよ。」
鶴見がこの不思議な夢を傍観して驚異の念に打たれていた隙《すき》に乗じたのでもあるまいが、その夢はすでに滅《き》えかけていた。喜海に取って代った景彦のすがたをちらと見たかと思う瞬間に、それもまた虚無のうちに没し去った。
鶴見は狭い庵室の中に独り残されて、ぽつねんとして黙座している。上人と見たのは栂尾《とがのお》の上人である。上人は茶の種を播いたばかりではなかった。上人は夢だといわれた。それは暗示である。上人は信の種、真言《しんごん》の種を播かれたにちがいない。鶴見はそう思って上人の歌道に関する垂示を憶《おも》い出《だ》すのである。
――すべての所有相は虚妄と見るより外《ほか》はない。しかしながら読み出すところの歌は真言である。虚空の如き心の上でさまざまの風情を彩《いろど》るといえども、そこには更に蹤跡《しょうせき》というものがない。この歌こそは如来の真の形体。一首に仏像を刻む思いをなし、一首に秘密真言をこめなしている。自分は歌によって法を得ることがある。
これが栂尾上人の垂示の大略である。鶴見は一心になってその言葉を噛みしめつつ味っている。
歳が改まった。寒い寒い毎日がつづく。ことしはわけても寒威が厳しいのではなかろうか。大地も木の葉もはげしい霜に凍《い》てはてている。
一月のもすえの或る日のこと。老刀自《ろうとじ》が一本の書状をさし出して、これを読んでみるようにとのことである。国許《くにもと》の妹からの来書である。
書面にはこう書いてある。――少しばかりだが餅を送る。その小包をこしらえているとき子供が不審がって、それからこんな問答を重ねたと書いてある。
「ナイネ。」
「モチタイ。」
「ナイスット。」
「カマクラノオバサントコヘオクル。」
「インニャ、タッタソイシコネ。」
「オバサントコハ三人ジャモン。」
「ウウ、ソイギイヨカネ。」
「これこそは真言である」といって鶴見は涙を流さんばかりにうれしがる。そして呪言《じゅごん》のようにこの問答を繰り返し口に誦《ず》している。こんな問答のうちにも、栂尾上人の夢の種がこぼれてひこばえているのかと、そう思ってみて、鶴見はいつまでもうっとりとしていた。
その時から更に二旬は過ぎた。送って来た餅も尽きてしまった。危機のおびやかしが寒気とともに痩身《そうしん》に迫ってくる。
庭の面《おも》には残雪が、日中というのに解けもせずにすさまじく光っているのがながめられる。
鶴見は庵室に籠ったぎりで、心を想像世界に遊ばして、わずかに慰めている。永遠の夢がかれを支えているといって好い。徒《いたずら》に現実の餌食《えじき》となるのは堪えがたい。鶴見はこの上とも生きて生きてゆかねばならぬと覚悟しているのである。
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(註記。前に出した問答はわかりにくい。それは純粋の地方語で語られている。それを標準語に訳してみる。
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