見わたしたところ殆どないね。宗祇はたしかに近代文芸の祖と仰がれて好い。おれの結語はそこにあるのだよ。」

 鶴見は景彦との問答を切りあげた。景彦はどうしたものか一度も姿を現わさない。問答が切れたので、鶴見はまた平生どおりの夢を見ている。夢を見るということがかれの生活になっている。その外には能がない。癖といえば癖、病といえば病であろう。あるいは渇望病だという診断が下るかも知れない。そういう病症を癒《いや》すに別の処方のあろうはずはない。やはり夢には夢を与えるに限る。
 海印三昧《かいいんざんまい》ということを鶴見はしきりに考えている。仏が華厳《けごん》を説いたのはその海印三昧を開いたものである。それによって始めて自内証の法が説き示された。三昧の定《じょう》を出て説いたのは通途《つうず》の経文である。定中の説の超越的、含蓄的なるには及ばない。そういってあの宗の人はありがたがっている。一心法界の海に森羅万象が映って一時に炳現《へいげん》すると観るのである。そこに一切法の縁起の無尽があり、事々の無礙《むげ》がある。一々の事象に万象が含まって相交錯して、刹那の起滅に息づいているのである。鶴見はそれを夢が夢と呼《よ》び交《かわ》しているものと考えている。そういう考察が鶴見の思想に媚《こ》びているのである。永劫《えいごう》にわたって夢に夢を見る。そのことはこの世界の本性に適《かな》っている。徒《いたずら》にそんな夢想に溺れて出口を忘れているといわれてもやむをえない。出ることができれば出もしよう。しかも出ることは即ち入ることだ。無理に出るということは考えられない。
 鶴見がこんな妄想に浸っている最中に、景彦の声がまた聞えてきた。今度は馬鹿に丁寧な言葉で物をいっている。
「相変らずですな。そういう説法も見事かは知りませんが、まあわたくしの手なみを見ていてください。あなたに好い夢を見せてあげますよ。」
「気まぐれものの景彦がまた何をしでかすかな。まあ、じっとして見ていてやろう」と独語《ひとりごと》のようにいって、鶴見は黙ってしまう。
 景彦はそれきり音沙汰がない。しばらくして鶴見は退屈して、何気なく向うを見る。その時である。すべての光景が遽《にわか》に一変した。
 現実の刺戟はどこにも見られない。そこには深さもなければ広がりもない。ただうす蒼《あお》い雰囲気があたり一面を掩《おお》うているのである。
 鶴見が壺中《こちゅう》の天地《てんち》なぞというのはこんなものかと思っているうちに、夢が青い空気のなかから搾《しぼ》りだされる。虚無の油である。それがまた蟄伏《ちっぷく》していたくちなわのうごめきを思わせる。気に感ずるような衝動を鶴見も感ぜずにはいられなかった。かれもまたわが身のうちに夢に応ずる夢のけはいを感じたからである。
 鶴見は現われてくる夢を見つめた。最初に目に映ってきたのは白馬である。よく神馬《じんめ》として神社に納めてある、あの馬である。木像のようでもあったが、人を乗せて、静かに足掻《あが》いている。馬のあとには若者がついてゆく。従者なのであろう。
 一|反《たん》ばかりの畑地はよく均《な》らされてある。麦でも直ぐ播《ま》いてよさそうに準備されている。何の種を播くのかとなおよく見ていると、百姓の馬としては、あまりに神威を備えた白馬はふさわしくない。その上に馬が乗せている人物は僧形《そうぎょう》である。鶴見はここでちょっと意外な思いをする。
 馬上の僧形の人物は極めて沈著な声で、うしろを振り向いて、「これ、喜海《きかい》、仕度は好いかな。さあ、一仕事はじめよう。わしもな、きょうは気分がいつになくすぐれているのじゃ。こういう時に仕事をすれば、きっとうまくゆこう。」
 馬上の上人はこういって微笑する。喜海と呼ばれた若者は種壺を抱えて、馬のしりえに引き添って、「さあ、よろしゅうございます」と、いかにも慎しみふかく申し上げて、馬の歩みだすのを待っている。
 上人は馬の手綱を無造作に操る。馬は器械か何かのように動きだす。それでも柔らかい畑地に馬の蹄《ひづめ》はそれ相応の穴を掘ってゆく。その穴に、喜海と呼ばれた弟子は一つ一つ種ものを投げこんでいる。傍《はた》からでは、それがどういう種であるかは想像されない。麦や豆類とはちがって、もう少し大振りな種である。
 馬蹄の跡の窪だまりに放りこまれた種は、喜海の手で丁寧に土がかぶせられる。見る見るうちに、こうやって一|反歩《たんぶ》の種播は終りを告げる。
 蒼みがかった夢の雰囲気がますます濃《こま》やかになる。今やあたりは真青に染められて、そこからほのかの匂いがたっている。夢というものにも鋭敏な感受性があるにちがいない。そしてみずから発《はな》つ芳香におのが官能を酔わしめて、ひそやかに楽しんでいる。それが、ほの
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