《けいびん》な目がぎろりと光っているが、そこにも人なつこいところが見える。和尚と呼ぶのがあながち不適当とも思われない。
鶴見は今花袋と相対して無礼講をきめこんでいる。杯《さかずき》を措《お》く暇もない。その時何かの拍子にこんなことをいった。「花袋君。因襲はもちろん破らねばならないね。固定はすべての因襲の根源だ。それではどうだろう。生死というのも一つの観念にちがいない。ことに死はね。死は特に異様な相を帯びて目だつのだ。そういう死も一の固定した観念として、因襲として、当然排除せられるのだろう。花袋君、どうだろう。」
そんなことを、鶴見はしどろもどろにいってみたのである。話下手《はなしべた》ということはどうにもしようがない。花袋はそれをどうとったのか、「死が因襲であろうはずはない」と例の性急な口つきで声を励ました。鶴見はこの和尚の一喝《いっかつ》を喫してたじろいだ。
そうこうしているうちに、玄関に訪問客が見えたようすである。細君が座敷にはいってきて、
「いつも来る、あの人ですよ。今日は会ってやってはどうでしょう」と、取りなしぶりにいった。
「ただ今来客中だと、そういって断ってくれ。」花袋は花袋で一向にとりあわない。
断れといった声は玄関にも筒抜けに聞えたにちがいない。鶴見は気の毒がって、「かまわないから会ってやったらどうだろう」と、いってはみたが、花袋は「会えぬ」といい張ってあとへは退《ひ》かない。そんなところにも禅家の老和尚というような格がある。鶴見はそう思って花袋の顔を見あげた。「妓に与ふ」と題した和歌の細ものが、かれの背後に微風をうけてゆらめいている。
花袋にも藤村にも、思想面においてはその深さを、広さを、どれだけ暗示していたところのものがあったろうか。そこには哲学も宗教も十分に批判されてはいなかったように思われる。自然主義の提唱といっても、つまるところ形式的な評論倒れで、探求の精神も科学的合理性も意外に希薄であった。現実尊重ということも、洗いだててみれば、芸術主義の一変貌に外ならない。それはそれで好いのである。その中でも、藤村は啓蒙に心を傾け、花袋は耽溺《たんでき》に生を享楽する。それぞれのちがいはある。
藤村が啓蒙に心を傾けたところは、ちょっとルソオを思わせる。かれがルソオを読んでいたのはたしかである。『告白篇』のごとき、一時は座右から離されぬ宝典でもあったらしい。かれは家長風の権威をもっていた。それを謙虚な言葉に包んで、開発の精神を社会に及ぼそうとした。自然を生活するというのである。
かれには別様な一面があった。そこでは情意の発作的動揺が見られる。唐突な言動があの不断の平静な態度をかき乱すようなことがある。圧縮したものが急に反撥する。まずそんなものである。もちろんそれは些細《ささい》な事がらの上に起る。気がつかねばそれなりにすんでゆく。それというのもかれには執拗な観念が一つあった。それが狂念となって潜んでいるが、時としては表面にあらわれてかれを脅《おびやか》した。遺伝というものが心頭《しんとう》に絡《から》みついていて離れない。かれはそれを払いのけようとして一生を通じて苦しんでいたものと思われる。狂念をいだいていたところもルソオと相通ずる。そういう狂念の発作があのような間違いを起したといって好い。かれは『新生』においてその事を告白するとともに、極度の節制を護りつづけた。
藤村にくらべれば花袋は単純である。藤村のように解決のつかぬものを胸中に蔵してはいなかった。妓と酒とはいわば風流のすさびであろう。そういう境地に韜晦《とうかい》して、白眼《はくがん》を以て世間を見下すという態度には出でなかった。南朝の詩でも朗吟すれば維新の志士のおもかげすらあった。それが『蒲団』を書いた花袋である。風流人という文人かたぎの本性においては終始かわらぬものがあったが、ただ一図《いちず》に物を思いこむと、それが強い自負心のうちで高揚される。かれが自然主義に熱中したのもそれがためであろう。
かれはまた山川に放浪した。藤村のように自然を生活するのではなくて、自然のうちに身心を没却する。山川の勝境にわけ入って人間世界の拘束を忘れようとする。そう見る限り、花袋は人生を煩累《はんるい》と思っていたにちがいない。それで花袋は旅をしつづけた。かれほどよく歩いたものも少い。それにもかかわらず、かれは病んで、自家の屋根の下で、無事に死んで行った。皮肉といえば皮肉である。そう思ってみて、鶴見は一抹《いちまつ》の寂しさを感ずるのである。
花袋はあれだけの旅行家であっても、ただ一つ、ドオデエのプロォヴァンスというようなものをもたなかった。もしそれがあったなら花袋の文章はもっと精彩を放っていたろう。それはいかにも惜しむべきであったにしろ、自然主義作家
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