ゃく》していない。なるがままになれというような風情《ふぜい》が見える。そしてかれはいつも快活であった。
 藤村は訪ねて行った二人を、追々に閲歴のさびがついて島崎家の名物とまでなった、あの素朴な白木《しらき》の机のそばに引きつけておいて真面目な顔でいった。「どうだね。これからみんなで浅草にくり出して行こうじゃないか。」そういって、煙草の脂《やに》で染まった前歯をちらと見せて微笑する。
 藤村がこんなときに言い出したことは、相談であるよりはむしろ命令にひとしい。そこにはかねて企図しておいた考がその実行を待っているというようなけはいがある。
 この浅草行は鶴見たち二人にとって異存のあるべきようはなかった。たとえ多少の異存があったにしろ、異存をあらせまいとする力がその計画のうちにこめられていた。藤村の発言にはいつの場合でも、あとにはひかぬ意志のはたらきが婉曲なことばのなかにかくされていぬというためしはない。
 浅草ではどんな風にわれわれ二人が訓《おし》えられたか、それを今語ってみたい。藤村は例の玉乗り興行場の前に立ちどまって、ゆっくりと煙草をふかしている。そしてまたゆっくりした言葉つきで、調子を落してこういった。「君。わかるかね。あれがトランペット、それからフリウト。好いかね。こっちがクラリオネット。みんな吹奏楽器だね。」
 興行場の看板の下の棚の上にはけばけばしい服装をした楽師《がくし》たちが押合って身づくろいをしている。われわれは藤村の指揮するままに場内に入って、しばらくのあいだ、玉乗の技をおとなしく見る。まるで従順な田舎出の若者である。鶴見はすまぬとはおもいながら心の中で反撥した。
「これからね。多分|大公孫樹《おおいちょう》の向うの、境内《けいだい》のはずれのところであったかと思うが、僕はいつぞや、観相の看板を出した家を見たことがあったよ。あそこへ行こう。ちょっと手相を見てもらうのさ。それはきっとおもしろいよ。どうだろう。」
 藤村はこういっておいて、ずんずんその方へ足を向ける。二人はついて行った。どうやらこれなどもあらかじめ用意しておいた計画の一つであったのだろう。
 観相家は果して相応におもしろいことをいった。藤村の手筋を仔細《しさい》らしく検《あらた》めてみて、「あなたは今事業を企てておいでになる。すえには必ず目的を遂げなさるね。それ、ここに通っている筋があるでしょう。上々吉《じょうじょうきつ》の相です。」そういわれて、まんざらでもない表情が顔色にあらわれる。藤村は首尾よく及第したのである。
 次に鶴見が宣告を受けた。「あなたは注意なさらなくてはいけない。」といって、観相家は改めて左の手を開かせて、天眼鏡《てんがんきょう》で物々しく見てから、その掌を指でたどって、「ここにこういう風にからまった線がありますな。あなたはどうご覧になりますか。ここをこうつなげば女という字が出る。あなたには女難《じょなん》の相がある。」これはまた手厳しい申渡しである。
 それを聞いて、鶴見は何か痛切な心持にこそばゆいような感じを交えて、押黙っているより外はなかった。
 活東は何といわれたか、すっかり忘れてしまって、一言もおぼえていない。
「手相も馬鹿にはできないね。」と、藤村はそこを出てからいった。
「当るような、当らぬようなことをいっておいて、実はこちらで判断するように仕向けるのですな。どうして、どうして手馴れたものだ。」誰にいいかけるでもなく、そういっている藤村の言葉を聞き放して、鶴見はひとりで嘯《うそぶ》いていた。
 これで浅草へ遊行《ゆうこう》を試みた意義は完了したことになる。
 藤村が東京を引き払って、信州の小諸に赴任して浅間山のふもとで新生活をはじめたのはそれから一と月たたぬうちであった。藤村の芸術的生涯の第一期が、ここにまた完成を告げたのである。
 その藤村が今では大磯の土に親んで、記念の梅樹の下にその魂を寄せている。藤村も宗祇《そうぎ》や芭蕉と同じように自庵では死なないで、ずっと広い世界に涯《はてし》ない旅をつづけている、死んで永遠に生きるのである。それをおもえばよい死かたをしたものと、羨《うらやま》しくもある。これはこころがけていても、たやすくは出来がたいことであろう。

「妓に与ふ」と題した自作の歌を自書して、簡単に表装したのを壁にかけてある。その軸物におりおり眼をやって、盞《さかずき》をふくむ。酒を飲んでくつろげばくつろぐほど胸元《むなもと》がはだけて、そこから胸毛をのぞかせる。それぐらい花袋《かたい》は肥《ふと》っているのである。妓のおもかげと酒とが三昧境をかれの前に展開する。好いここちに浸り切った花袋がそこにある。単に花袋と呼ぶよりも花袋|和尚《おしょう》と呼んでみたい。酔態の中にも一種の風韻がある。近眼鏡の奥には慧敏
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