て、吐息《といき》をついた。
その夜、夢を見た。夢にあらわれたのは、あの浄明寺の阿弥陀如来にてまします。尊体は昼間見てきたように、蓮座を軽く踏まえて立たせたまうおん姿そのままである。そして身じろぎもしたまわずに伏せがちのおん眼《まな》ざしから無量の慈愛がこぼれでるままに、そのおん眼を迷惑する衆生の上にそそがれている。
鶴見はそのおぎろなき慈悲に身を染めて、さながら如来智をでも授かったように他念なく随喜渇仰《ずいきかつごう》していたものである。その時である。ふと、ちらちらする動きを感じた。かれは夢の中で、心の散乱を拒《ふせ》ごうとして努力する。それにもかかわらず、ちらちらする感じがつづいて起る。目をあげてよく見れば、それは尊像の台座から離れた蓮弁である。台座から離れたその一弁一弁が、ふわりと浮んで、落ちもせずに、空間にただよっているのである。かれは勿体《もったい》ながって腕を伸して、その蓮弁を掌にお受けしようとした。どういうわけかそれだけのことがどうしてもできない。あせればあせるほどその蓮弁の影が滅《き》え失せるように薄らいで、骨を折っても手には取られない。そうかと思うと、つと逸《そ》れていって、向うできらりと閃《ひら》めく。せつない思いをしてあせっているうちに、手足は痺《しび》れ目はくらんでくる。とうとう如法の闇がかれを掩《おお》うてしまった。
かれはこれで死んでゆくのではないかと疑った。死ぬ前にもう一度阿弥陀仏をおがみたいと思って目をあげると、闇は開いて、尊像は何事もなかったように金色の光を放って立たせたまう。台座を見ると、蓮弁はこれももとのままに合さっている。かれはこれを見て驚くとともに安心した。そのはずみにまた夢がさまされた。
夢から醒めた鶴見には、生死事大《しょうじじだい》、無常迅速という言葉のみが、夢のあとに残されている。まだどこやら醒めきらぬ心のなかで、平凡な思想だとおもう。そんな平凡な思想が、言葉がどうしてあのような不可思議な影像を生み出したかと追尋《ついじん》してみる。奥が知れぬほど深い。今更のように、せつないものが胸に迫ってくるのである。
死という観念が改まったすがたで、意識の上に頭を出す。
ここには生あるすべてのものを刈り尽す大鎌がある。薙《な》げば薙ぐほど自然に磨《と》ぎすまされる大鎌である。それを見まいとしても見ずにはいられない。それを思うまいとしても思わずにはいられない。
しかるにこれはまたどういうわけか、鶴見はいざとなると、自分のことは棄てておいて、友人や先輩などの死について追想する。それも徒事ではあるまいが、おかしな心理といわざるをえない。ただ思い出すともなく思い出されるのをいかにともすることが出来ない。口があいて洩《も》れてくる水を塞《ふさ》ぎとめるだけの力を、かれはもっていないのである。
まず藤村《とうそん》がおもかげに立つ。鶴見が藤村をはじめて訪《たず》ねたのは、『落梅集《らくばいしゅう》』が出る少し前であったかと思う。そう思うと同時に、種々雑多な記憶がむらがって蘇《よみがえ》ってくる。その当時藤村は本郷の新花町にいた。春木町《はるきちょう》の裏通りを、湯島《ゆしま》切通しの筋へ出る二、三|丁《ちょう》手前で、その突き当りが俗にいうからたち寺である。藤村は親戚の人と同居して、そこの二階で起臥《きが》していた。
その二階というのが、天井も張らずに残しておいたような室《へや》で、見ると室の隅々には無造作に書物が積み重ねてある。後年の藤村が机に一冊の書の置かれてあるのも嫌って、あたりを綺麗にかたづけた上で、客に対《むか》っていたあの潔癖に比べると雲泥の差であるが、かえってこの方が親しみ深くもあった。
藤村はそれからやがて小諸《こもろ》へ行くことにきまり、その仕度《したく》をしていた時分かとおもう。鶴見は俳人の谷活東《たにかっとう》と一しょに新花町を訪ねたことがある。この訪問は藤村からすすめられて、それに応じたものではなかったか。その辺の細かな事情はよくはおぼえていない。活東は俳人であるが、藤村張りの詩を鶴見よりは器用に書いて、『新小説』などによく投じていた。藤村は活東がかれを敬慕していたことを知っていたにちがいない。そうしてみれば活東を伴って訪ねたのは鶴見のふとした思いつきからではなかったようである。それほどまでには親密になっていなかった。人をつれて行くということなぞは遠慮しなくてはならぬはずである。
それはとにかく、活東は飄々乎《ひょうひょうこ》とした人物であった。母親とつつましい暮しをしていて、自分は雇員か何ぞになって区役所に勤めていた。かれはおりおり役所を勝手に休んで鶴見の家にやってきて、長話をして行く。拘束されることが何よりも嫌いらしい。勤務などに殆ど頓著《とんち
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