あ、うちのみきね、あれも困りものだ。それに」といいさして、老顔に深い皺《しわ》を寄せる。いつにない父のうち解けようである。みきというのは継母の名である。鶴見は父のこの言葉を聞いて、その先きを恐れた。その先を聞くというのは如何《いか》にも辛《つら》かった。鶴見にはおおよそのことは分っている。それで別事にまぎらして、その話はそれなりに伏せてしまった。父親にはどこか女嫌いというところも見えていた。そんなこともあったのである。
 父親は七十の古希に、国許《くにもと》で同士集まって、歌仙であったか、百韻であったか、俳諧を一巻き巻いた。それを書物にして配りたいという。書物は『八重桜』といった。鶴見が受合って、印刷させて、和綴《わとじ》の小冊子が出るようになった。端書《はしが》きも添えておきたいという。鶴見が代筆をして、一枚ばかり俳文めいた文章を書いた。父は鶴見の文章を読んで、はじめて子供の文才を知って、少しは心を安めたようであった。鶴見はそれがうれしかった。

 性慾の磁気嵐、人生の球体面に拡大する黒点、混迷と惑乱のみなもと、それもいつしか過ぎ去った。
 鶴見はこういうことを夢みている。今一度童子となって、生みの母から、魔力にかかった昔々を聞いて、すやすやと長い眠りにつきたい。
 厄落《やくおと》しということがある。夢もさっぱり落してしまったらばと、おりおり思う。それでもかれは夢から離れることもできず、夢もまたかれを離さない。
 鶴見は例のとおり、ひとりで何かつぶやいている。
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  夢は呼び交す



 秋もすえのころである。鶴見は夏の季に入ってからどこへも出ずに籠っていたので、久しぶりで、長谷《はせ》の方へ出掛けてみた。古本屋をあさって、雑書を五、六冊手に入れて、それを風呂敷に包んで持っていた。さて引き返えそうとすると、ひどく疲れがでて、歩行もはかどらない。戦災以来弾力を失った脚はまだ十分に恢復していないのである。それにかかえている風呂敷も重かった。
 そんなありさまで八幡社の境内《けいだい》までたどりついた。池の中央にはちょっとした出島《でじま》がある。そこにはもと弁天堂があった。その跡が空地《あきち》になっているのである。その空地でゆっくり休んだ。弁当も出して使ってみた。少し元気がついたので、予定していたことでありすぐ近くにある国宝館はやはり見てゆくことにした。
 観覧料を払って、いざ本館へと石の階段を昇ろうとすると、足があがらない。やっとのことで館内に入った鶴見の面前に、いきなり等身大の仏像が立ち現われる。やれやれと思うひまもなかったのである。その仏像のひろげた腕があたかもかれを迎えて、かれの来るのを予期してでもいたように見える。鎌倉期の阿弥陀如来の座像である。それにしても例の中性的な弱々しい表情もなく、そんなマンネリズムから遠く離れて、しっかりした顔面や四肢の肉附けが男性的であるところなど、見る人の目を牽《ひ》き、精神を新にさせずにはおかないという風格がある。鶴見はおもわず身づくろいをした。体のどこか急所に石鍼《いしばり》をかけられたような感じに打たれたからである。
 こういう阿弥陀像はこの外にも二、三あったが、それとは様式の変った如来の立像が一体ある。それがまた鶴見を感動させた。物々しくはないが特殊な製作ぶりを示している。浄明寺《じょうみょうじ》の出陳である。舟型光背《ふながたこうはい》につつまれた、明快で優に妙《たえ》なる御姿である。技巧は極めて繊細であるが、よく味ってみれば作者の弛《ゆる》みなき神経が仏像を一貫して、活きて顫動《せんどう》している。そして全体は金色にかがやいている。眩《まばゆ》いようである。
 おかしなことをいうようであるが、この像をながめた後で目をつぶると、鶴見にはその台座の蓮弁が危うげに動いて、今にも散ってゆくかのように見える。事実この蓮弁はその一つ一つが離れてでもいるらしく彫り込んである。そこに彫刀の冴《さ》えが見せてある。せいいっぱい開敷《かいふ》したかたちであろう。そよとの風にもさそわれて散ってゆかぬでもないように思われるのである。
 この浄明寺の阿弥陀像を鑑賞した目で、すぐ先にある弁財天《べんざいてん》を見ることは、鶴見にはいかにもつらかった。先刻休んだ池中の出島に堂構えがあって、その堂内に安置されていた有名な裸体像である。写生的にはよくできていると相槌《あいづち》を打ってみても、これは一箇の人形に過ぎない。
 たまにおもてに出て、ここの国宝館を見て来たということが、鶴見に取っては、かれの生活に、その単調を破る一つの刺戟をもたらした。しかし家に帰りついてみると、精神にまた弛《ゆる》みを生じて、しばらく忘れていた疲労が体をくずおれさした。かれはなさけないと思ったが、悩む脚をなげだし
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