ん》をしていた。机の上には開かれた一冊の書物が載っている。鶴見はその本の中で、南欧の美しい風景を心ゆくばかり眺めている。海のあなたにはあの有名な活火山が隠さねばならぬことが世にあろうかとばかり、惜しげもなく全姿をあらわした。その巓《いただき》から吐き出す煙が風に靡《なび》いて静かに低く流されてゆくのがよく見える。悠々《ゆうゆう》たる思いがする。ここの海港の盛り場は殊の外|賑《にぎ》わしい。ナポリである。鶴見はその本の訳者とともにナポリの町をさまよい歩いて、情熱のにおいを嗅《か》いでみる。
その時であった。鶴見が離れようとすればするほど纏《まとわ》りついてくる女の執拗さにあきれて、女の媚《こび》には応諾《おうだく》も与えずに、押黙って本を見ていた。女は激しい痙攣《けいれん》でも起したかのように、顫《ふる》える手にいきなり鶴見の見ていた本を取り上げて、引き破って、座敷の隅《すみ》に放りやった。
鶴見は女の行為に全く呆気《あっけ》にとられてしまって、咄嗟《とっさ》に言句も出ない。それから後どうしたかも知らない。それでいてその折読みさしていた書中の条下はよく覚えている。その一章には「人火天火」という小みだしがある。それがはっきりと思い出される。
この書の訳者は老母に読ませたい一心から活字をわざわざ四号にして、文章の段落に空白を置かず、追い込みに組んで印刷させた。活字を大きくしたために増加する頁数を節減しようとしたのである。そういうことがその本のどこかに断ってあった。
鶴見は訳者の孝道に感じ入った。それに対してかれの為すところは浅ましいかぎりである。かれはいよいよ慚愧《ざんき》した。
そういうことが一転機となって、鶴見は気を楽にした。それでもなお惰性になった性慾をかれはきっぱり打切りもせずにつづけていった。
女がこんなことをいった。「あなたのお父さんね、あんなむずかしい顔をしておいでだが、一度こんなことがあったの。」
鶴見は女の言葉に毒のあるのを悟った。見さかいというものを知らぬ女だから、別に毒を注《さ》すとも思わずに、無意識にそういったかも知れない。しかしかれはもはや女のために弁解してやる必要を少しも感じない。そして取り合いもしなかった。
父親は茶室に籠って茶道に精進している。そして宗匠から伝えられてくる手前を繰返し繰返し復習してから、控帳へ書き留めをする。それが殆ど毎日の仕事である。女が相手をする。名家の育ちだけあってものごしは上品で、言葉つきもやさしい。色は衰えたといってもまだ残《のこ》んの春を蓄《たくわ》えている。面《おも》だちは長年の放埒《ほうらつ》で荒《すさ》んだやつれも見えるが、目もと口もとには散りかけた花の感傷的な気分の反映がある。そういう女を茶室のうちに据えて見れば、艶《つや》めかしく風流でないこともない。
その女と共に鶴見の継母も相手になる。順番に炉《ろ》の前で、複雑な手前をする。
継母もさる支藩邸の奥向きを勤めて、手もよく書けば歌道も一通り心得ている。継母はこの女を嫌っていた。その心理はよくわかる。父親は父親で、この母が手もうまく和歌も相応によむのを何か出来過ぎでもあるようにして嫌っていた。それも思えば口実であったろう。そして時々訪ねてくる歌の師匠の老人をも嫌っていた。
その老人があの今井克復翁である。大阪で、大塩平八郎の騒動のあったとき、惣年寄《そうどしより》として火消人足を引きつれて大塩父子の隠家《かくれが》を取り巻き、そしてこの父子の最期《さいご》を見届けたという、その人である。大家《たいか》の生れでさすがに品位も備わり、濶達で古いことをよく記憶していた。中島|広足《ひろたり》とは姻戚であった。翁の夫人がたしか広足の娘であったように聞いていた。隣町に住んでいたので、短冊を背中に入れて気軽く訪《たず》ねてくる。弟子の家を廻り歩くのが何よりの楽しみであったらしい。若いおりは能楽に凝って、そのために大きな身代をなくしてしまったということである。翁の歌は『新古今』の伝統を守って、『万葉』を遠ざけ、桂園《けいえん》を疎外していた。翁は万葉張りを揶揄《やゆ》していた。鶴見が『万葉』を好んでいたのを感づいて知っていたからである。
[#ここから3字下げ]
うばたまの闇雲《やみくも》いそぐかごの中に
富士を見ながらむすこ行く見ゆ
[#ここで字下げ終わり]
これなどどうですと高笑いをして、翁は右の歌を書き示した。加茂季鷹《かものすえたか》の作だというのである。
父親がこの老翁を嫌うのは老翁その人を嫌うのではない。それが鶴見に分らぬでもなかった。
或時父はこういった。鶴見が父の晩酌の世話をしているおりであった。継母は留守であった。父は小姓でも抱えたような気になって、鶴見に世話をさせて喜んでいる。「あのな
前へ
次へ
全58ページ中49ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
蒲原 有明 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング