き乗せられ、そして本藩の城下の町々を引まわされた。土地の人はそういう風に伝承している。鶴見はこの伝説を聞いたとき、テニスンに似寄りの詩があったことを想起した。テニスンの詩は、サアジェントとか何とかいったような、どこやらの市の長が妻の不倫に対する懲罰であったように記憶している。東西同事だと思う。
こうやって裸体のまま引廻された八重垣姫は、その城下から封地《ほうち》の屋形に連れ戻されることになり、馬は姫を載せて本居の城あとの見えるところまで進んできた。そこには一筋の川が流れていて、小さな渡船で人馬をわたすのである。馬からおろされた姫は向うに見える城あとの樹立《こだち》をじっとながめていたが、遽《にわか》に気をあららげて、腰に手をやって、「こんなものが今更何になる。益《やく》にもたたぬものは邪魔になるばかりだ」といった。その時|擲《な》げ棄《す》てた一片の布を、ちょうど川岸に枝を伸していた松が受けとめたというのである。渡し場の目じるしとして立っていたその松は今に残っていて、脚布掛《きゃふが》けの松と呼ばれている。
殿の屋形に著《つ》いてからの姫は日夜|拷問《ごうもん》の責苦《せめく》に遇《あ》い、その果《はて》はとうとう屋形のうしろの断崖から突き落されてこと切れた。無慚《むざん》な伝説であるが、伝説はまだ終らない。名家の屋形にはけちがついたのである。姫の怨念《おんねん》は八重垣落しの断崖のあたりをさまよっていて、屋形に凶事《きょうじ》のある前には気味のわるい笑い声がしきりに聞え、吉事《きつじ》にはさめざめと哭《な》くけはいがする。怨念というものを信じていた時代のことである。それがどれだけか、屋形の空気を暗くしていたことだろう。
明治維新後はさすがの名家も急劇に衰えた。それには世間の圧迫もあったには違いないが、この屋形の主君の所為《しょい》が、専らその因をなしていたといっても好い。人の好い主君は、阿諛《あゆ》する旧臣下や芸人の輩《やから》に取巻かれて、徒《いたずら》に遊楽の日を送り迎えていた。またそれよりもわるいのは、いろいろの女性によって家庭の乱されたことである。禍の種はそこにあった。維新後二十年はそれでもどうやら因襲の生活をつづけていられたが、それを過ぎるといよいよ没落の時期が来た。露命をつなぐにさえ事欠くようになったのである。有志の人々が世話をして、毎日わずかばかりの米を出し合って、袋に入れて置く。その袋を昔でいえば屋形の若君がさびしい身なりをして、破れ草履《ぞうり》をはいて、受け取りにくる。鶴見は国もとへ行っていたとき、その様子を傍からそっと見ていて、せっぱ詰《つま》った気の毒な事情を知っていた。そんな状態になるまでに落ちぶれたのである。
鶴見のかかり合ったという女はそんな乱脈な家庭で育てられて来たのである。こんな話も聞いた。まだ娘のころ、若い男と轡《くつわ》をならべて、田舎の畦道《あぜみち》を馬で乗りまわして、百姓をおどろかした。嘘か本当か、そんな噂話も伝っている。一度久留米近傍のさる名家に嫁したが、その縁も長くはつづかずに出戻ってきた。その後は縁故のある諸家に転々と預けられた。どこでもその取扱に手を焼いたからである。鶴見の家がその最後の選に当ったのは鶴見の家が旧臣のことであり、鶴見の父親の厳格な性行が認められ、その上に家は閑散であり、そこに入れておけば、自然に茶道などの風雅な教養の下《もと》に好感化を及ぼすだろう、そんな望を抱いていた人たちから父は見込まれたのである。そしてその問題の女性を鶴見の家で余儀なく引受けた。それがはからずも鶴見に苦い閲歴を負わした端緒となったのである。
鶴見の相手になった女性の手ごわさは始から知れていたのであるが、それでいてどうしてもその悪関係を断ち切り難かったのは性慾のなす業であった。性慾は実は二人の間を繋《つな》いでいたのではなかった。もし繋いでいたならば、そのきずなをあるいは断ち切ることもできたのであろう。しかるに二人は性慾を別々の意味で享楽していたのである。その間に共通のきずなはなかった。鶴見の方には盲目の衝動あるのみで、相手には性慾に加工した手練《てれん》手管《てくだ》があった。鶴見は好い加減にそれに乗せられていたのである。
肉は殺《そ》がれ骨は削られる。もうこれからどうして好いかわからない。破滅が目の前に見える。そこまで遂に押詰められたと観念していた矢先きに、たまたま一つの事件が起って来た。全体から見れば些細《ささい》な事であるが、その事が鶴見を鋭く刺戟した。鶴見は目を醒した。その事が起ったばかりに彼は性慾の迷路を出ることが出来るようになったのである。かれは救われたのである。
鶴見の生涯に一の転機をもたらした事件というのはこうである。
或日のこと、鶴見は書見《しょけ
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