。一人の比丘尼《びくに》が訪《おとず》れて来た。女中が「お比丘尼さまがお見えになりました」といって丁寧に取次いだ。会ってみると、姿を変えたさきの少女である。
 小倉で発心《ほっしん》して尼《あま》になり、小さな庵をもつことになったとは聞いていたが、こうやってじかにその姿を見るまでは、そのことを切実に考えていなかったといって好い。しかるに今まのあたりに変った比丘尼姿を見てさすがに感慨は無量に起ってきた。それでもなお感傷的にはならずにすましたことが、かれの心を一層平静にした。
 尼はこういった。「わたくしも永平寺《えいへいじ》へ行って、思い立ったことでもあり、修行をして、こんどは正式に比丘尼のゆるしを貰って来ました」といった。尼は尼だけにあっさりしている。その晩は鶴見の供養《くよう》を受けて一宿して、翌日は早々に九州へ立って行った。

 また時が過ぎた。小倉で鉄道の方の工場に勤めていた親戚のたよりで、比丘尼は小庵にこもって相変らず行いすましていたが、病気があったと見えて、ある朝ところの人が尋ねていってみると、尼は畳の上にうつ伏せになって死んでいたというのである。大分苦しんだ形跡が見えるとも書き添えてあった。はかないことである。鶴見はこうして、とうとう本山《ほんざん》から貰ってきたという、比丘尼の称号をすら知らずにすごしてしまった。かれはこんなことのあるたびに、性分とはいいながら、普通の人情に欠けたところのあるのを反省するのである。
 鶴見はまた考えた。女の身の上ほど変化極りないものはない。自分などはやっとこれからというとき、女は既に人生の複雑な径路をたどって、最期《さいご》の苦悩まで嘗《な》め尽《つく》して、しかも孤独のまま死んでゆくのである。かれはそう考えながら、謎めいた女の一生をひそかに気味わるくも感じているのである。

 鶴見が小倉で女に別れてきてから、幾年かは比較的に無事に過ぎた。その平康のなかからまた新たな性慾の経験がはじまって、かれは忘れ得ぬ苦しみを身を以て苦しみぬいた。かれはここに至って、その回想が一倍の冷静さを要求することを知った。身を以て苦しみぬいたという外に回想すべき何物をもそこに窺《うかが》えないからである。如法《にょほう》の黒闇《こくあん》がすべてを領していた。経過した一々の事象も内心に何らの写象をもとどめていない。殆ど空無であるその心理状態を強《し》いていえば、ただ「暗い」という一言で足りよう。目に見えぬものにも臭《にお》いはあろう。どんな臭いがするかと聞かれれば、「臭いはする。あの燐の一塊《ひとかたまり》を空気中に放出しておけば、ふすふすと白煙を揚《あ》げて自燃作用を起す、そのおりに発散するむせるような臭い、そんな臭いがする」と答えるのが関の山である。
 絶体絶命の性慾のさせる仕業《しわざ》である。それを徒《いたずら》に観念の上で弄《もてあそ》んではいられない。鶴見はそう思ってひとり憮然《ぶぜん》とする。
 回想がかれに要求するものは客観的な事象そのもののみである。勢い誰が見ていても誰が聞いていても、その通りだといわれる事柄の羅列に過ぎなくなる。この覚書とても冷静が要求されればされるほど、乾燥無味な叙述にならざるを得ない。

 鶴見と目を見合せているのは貴族ともいわるべき家柄の女である。どんな冗談をいうときにも、すまして、さりげない風を装って、それがわざとらしく見えぬように取りつくろうことを瞬時も忘れない、そういう態度を匂《にお》い袋《ぶくろ》のように肌につけている女である。年は鶴見より五つも多い。恐らくは最初姫君として嫁いだであろう名誉あるその家にもいにくくなり、放恣《ほうし》に身を持ちくずして、困りもの我儘《わがまま》ものとして諸家に預けられ、無籍ものの浮浪にもひとしい生活をつづけていたことをも苦にせずに、かえってその境遇を利して自由に振舞って来た。この女にはそんな経歴がある。もともと竜造寺《りゅうぞうじ》氏の出だという。家系の立派さに先ず驚かされる。
 九州でも今の地理からすれば辺陬《へんすう》と称しても好い土地に祖先以来の屋形《やかた》がある。小高い野づかさが縦に列んでいるのが特異な景観として目につきやすい。それが三つ、それぞれ何城と呼ばれて区別される。戦国時代の土豪の拠《よ》った砦跡《とりであと》である。その中央にある城あとに代々の屋形があって、ちょっとした壕《ほり》も廻らしている。屋形のうしろに断崖がある。八重垣落しである。
 八重垣というのはこの竜造寺家幾代目かの寵姫《ちょうき》である。戦乱の収まって以来、戦勝者が本藩を建て、竜造寺家はその支藩の名の下にこの土地に封ぜられた。その八重垣姫には落度があった。それが無実であるかどうかは分らぬが、密通の重罪を負わされ、まる裸にさせられて馬の背にか
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