とは違って徐々に進行するものではない。突如として湧いて出てくる。それが青年期の特調をかたちづくるのである。青年期への新入者は性慾を抑制する術《すべ》を知らない。手綱《たづな》をかけられぬ性慾は恣《ほしいまま》に荒れまわる。鶴見は最初から性慾道をそんな風に経験したのである。
恋愛と性慾とをしばらく別な物としてみれば鶴見には性慾があって恋愛は殆どなかったといって好い。あとから顧みて少しはなつかしいと思い出されることのあるのは、初恋のほんの取りつきばなの短期間だけである。その期間のみが恋愛の手ほどきであったかと思えば、それはそれなりで、あわれを誘《さそ》う夢ともなる。当時流行の束髪《そくはつ》で、前髪を切って垂らした額つき、眉と眉とが神経質を思わせて迫っているように見え、その上に黒目がちで眉毛の濃い、切れ長の瞼《まぶた》が、おのずからにあらわす勝気を、うら若い微笑の花がその匂いのなかで和《やわ》らげている。夢の再現のうちに映ずるのは、そんな表情をもった円顔《まるがお》の少女である。
少女は継母の親戚のもので、ちょくちょく遊びにきていた。鶴見が接する唯一の女性がそこにあった。夢ではないが夢のように感ぜられる。かれはその淡々《あわあわ》しい夢を懐に抱いて温めていたのである。それが習慣となったが、別に気にも留めないでいると、体のどこやらがむずむずしてくる。何ものかが次第に浸《し》み込《こ》んでくるようにも思われ、また何ものかが生れ出ようとして悩んでいるようにも思われる。抱いた夢は雛《ひな》を孵《か》えさねばならない。それがどんな雛であるか、かれはまだそれを問うてみようともしなかった。
その少女というのは他家へはやくから養女に貰われていたのである。最近にその家でどういう事情があったのか、それは知らされていなかったが、叔母がその少女を見てやることに話が決って、鶴見の家に預けられた。そんなわけで、これまでたまたまに遇《あ》っていた少女と毎日顔を合わせるようになる。禍機《かき》はそこに潜《ひそ》んでいた。盲目の性慾は時を得顔にその暗い手を伸して、かれを未知のすさんだ道に押遣《おしや》った。
急に発動した性慾の前には自もなく他もなかった。ただ情熱のうちに一つにならねばならぬという念慮のみが残されている。この強引な性慾の醜さを見せつけられて、少女はうるさく思ったにちがいない。それでも少女はこらえていた。見さかいがつかなくなった鶴見である。それからというもの、かれは本能の獣性の俘《とりこ》となって、牽《ひ》かれゆくままに行動した。
折からの季節は真夏であった。あたりには白熱の光線が満ち溢れている。その中にあって鶴見の性慾は更に激しく燃えたった。そこには枝葉を繁らす樹木もなく濶達《かったつ》な青空もない。すべては発火点に達して、夢中になって狂躁曲を奏しているようにしか見えない。その光景は正《まさ》に迷妄世界の大火災を思わせるが、鶴見にはもうそう思ってみる余裕すらない。どこを見てもかれの見るところに性慾の焔《ほのお》が燃え移ってゆくのである。
時が変化をもたらした。少女は縁があって結婚した。しかしどうした理由があったものか、結婚後半年もたたぬうちに戻されて、今度は兄の家へ引き取られた。この兄というのは軍籍にあったので、日清戦争後は小倉《こくら》の師団に転任させられた。少女もまた兄の赴任に随《つ》いて小倉へ行った。
鶴見は兵役関係で父の郷里の本籍地へ行き、不合格を言い渡されてからもなお滞留していた。それから足掛け三年もぐずぐずしていたが、いよいよ帰京することに決して国許《くにもと》を出発し、途中小倉に立寄った。鶴見はここで久しぶりに往年の少女と遇うことになった。
この家の兄嫁というのはきさくな性分で、食事のおり、「これが東京でお世話になっていたときには大分面白いことがあったそうですね」といった。そういわれて、突然のことなので、ちょっと面《おも》はゆかったが、かれはその言葉をむしろ冷やかに聞き流してしまった。かれには一旦事が過ぎれば極めて冷淡にものをあしらう性癖がある。根本の執著心は深いけれども思いも寄らぬ冷淡さで過去を離れて現実に処してゆくことが出来た。諦らめでもなく仮装というのでもない。鶴見は自分にそういう性癖があるのを知り抜いていて、時には余りに冷やかすぎると思って悔《くや》むことさえある。
鶴見はこのたまたまの会見にも、些《いささか》の感情をも動かさずに、それきりに別れてきた。
一つ思い出すことは、その小倉でその日に雪が降りだして、翌朝起きてみれば、めずらしくも二尺以上積っていたということだけである。
また時が立った。今度は歳月の間隔が長かった。その間に鶴見は父を亡《うしな》い、その翌年には結婚していた。
或る日の晩方である
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