られるところを見ると、友人はもはやこの家の立派な若主人である。そしてそれに相応した待遇を受けている。鶴見がこういうような生活ぶりを見たのは始めてである。しかしこの時は、学生の身分としての生活ぶりに懸隔の差が余りに多かったせいか、ただもの珍らしいと思ったばかりで、別段の感情は起さなかった。
 須藤はそういう家庭に育っただけに、どことなく貴族的で、わざとらしくない品位が具《そなわ》っていた。ただその様子を見ていると、次第に迫ってくる暗い影が、かれの身に落ちかかっているようにも思われる。それが果して倦怠であろうか、絶望的な苦悩であろうか、そんなことが鶴見に分ろうはずもない。鶴見はこの友人が体がもっと強かったらばと思ったのみであった。
 鶴見はそんな友人から透谷の『蓬莱曲』を借りて来たのである。かれのためには、ここに新しい友人を一人得たというよりも、新しい書によって、透谷その人に深く親しむことができたという方が適切である。
『蓬莱曲』はもちろんすぐに読みおわった。そして感激した。
『蓬莱曲』を読むと、『マンフレッド』が自然に思い浮べられる。バイロンも気随気儘な生活を送っていた。そしてあの図抜けた旺盛な気力を養っていた。鶴見はまたここに至って、この書を貸してくれた友人のおもかげを、かれのえがいている妄想のなかでちらと見た。須藤に体力がもっとあればと惜しんだのも、そのためであったかとも疑った。須藤をバイロン卿にあやからしめようとするのではない。そんなことを思いつくというだけでも痴《たわ》けたことである。鶴見はそれを知らぬではない。知ってなおかつ他愛もない狂想を追うているのである。かれはこの※[#「兀のにょうの形+王」、第3水準1−47−62]弱《おうじゃく》な無名の若者の中に、その身を覆うていると想像される暗い影の中に、あの反抗心と絶望的な苦悩を持っているバイロン卿をえがこうとするのである。無理無体なことではあるが、かれはこの若者を傭《やと》って、仮托してまでも、バイロン卿のえらさを現前したかった。要するにこの若者を憑座《よりまし》に据えてこの大詩人の乗り移る魂の声を聞こうとしたのである。鶴見にはどうかするとこういうような考え方をして、情感の一時の満足を得ようとする妙な気まぐれがある。
 鶴見はしばらくうつけた考に耽《ふけ》っていたが、何のかかわりもないのに、仮托の役に使われたこの若者こそ迷惑なことである。透谷の『蓬莱曲』がとんだ罪を作った、そう気がついて見ると、鶴見は心のうちでこの友人に対して、すまぬことを考えていたと詫びるより外はなかった。

 透谷には『蓬莱曲』以外に、少し後になって出したものに『宿魂鏡』がある。観念小説だという評判がわけもなく鶴見少年の心を打った。かなりむずかしい短篇である。これもやはり『国民之友』の附録に載せられたものである。心理の藪《やぶ》がその下に通ずる路を暗くしていた。少年の好奇心がその迷路をおぼつかなくもたどらせた。そんな記憶が残っている。透谷のもので、今一度読み返してみたい作品の一つである。

 鴎外はトルストイと同様に英国人を嫌った。その点から推しても、本国に愛想をつかしたバイロンにある程度の関心を持っていたにちがいない。すでに『マンフレッド』首齣《しゅせき》の数十句の訳がある。そうかといって、バイロニズムには頓著《とんちゃく》するところがなかった。バイロンその人というところのバイロニズムとは別物である。無分別な鶴見にそんなわけが弁《わきま》えられるはずはなかった。
『浴泉記』が出た。鴎外の実の妹に当る小金井喜美子の訳筆である。一ころ露西亜《ロシヤ》をバイロニズムが風靡《ふうび》した。そういう時代の世相をえがいたものである。うぶな少年にはその反社会的な行動が深刻に見なされて、矯激な思想の発揚に一種の魅惑を感じた。こんな深刻味のあるものを一女性の繊手《せんしゅ》に委《まか》せて夫子《ふうし》自らは別の境地に収まっている。鴎外はなぜそんな態度を取っているのだろう。バイロニズムに浮かされかかっていた少年にはそれ相応な幼稚な不満があって、それが一廉《ひとかど》の見識でもあるかのように思いなされるのである。
 鶴見少年にも思想らしいものが、内から甲《こう》を拆《ひら》いて芽《め》ぐんでいる。そこに見られるのは不満の穎割葉《かいわれば》である。かれはいつのまにか生意気になってきた。

 そのうちに中学の業を終える。明治二十五年である。少年期から青年期に入る。事の順序は表面平穏に推移するが、少年から青年に経過するその間の変遷は実際には驚くべきものがある。ただ一線を劃するのでなくして、平地に山のような波瀾を起すのである。別天地に入るのである。
 性慾がはじめて問題になる。性慾は止むに止まれぬ本能の発露である。思想など
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