に見える緩《ゆる》やかな曲線をえがいている。この『蓬莱曲』が出たという事実は、古い伝説が語るところの、江水《こうすい》の流れからあらわれた大きな亀が、その背に負うていたという、あの河図《かと》に比すべきものであったかも知れない。しかるにそれはどうであろう。質素極まる仮表装で、一点の飾もない白と黒とが、まるで何かの喪《も》に籠っているように思われる。『蓬莱曲』というのは正《まさ》にそんな本であった。しかもこっそりと世の中に出たのである。

 鶴見は中学に通うようになってから、毎日数寄屋橋をわたって、銀座|尾張町《おわりちょう》の四辻を突切って行く。そしてこんなことを思っている。「おれの足はきょうも透谷の住んでいる家の前の舗道《ほどう》を踏んできたのだ。」こう思って、それをひそかに誇りとしていた。そんな日もあったのである。
 透谷の家というのは、銀座通りよりもむしろ数奇屋河岸《すきやがし》の方に近よっていたかと思う。河岸から来れば左側の小さな角店《かどみせ》で、煙草をひさいでいた。そういう店の奥に将来を期待される詩人が世に容れられずにしじまっているということを、少年の心にはまだ不思議とも思わずにいられた。彼はただ詩人という呼声に酔わされていたのである。
 北村透谷の『蓬莱曲』がその頃出た新刊書の一つである仮表装の素朴な本であることはすでに述べた。恐らく二、三十銭そこそこで売っていたのだろう。それにもかかわらず鶴見はその本をどうして手に入れたものかとその算段に数日心を悩ました。余裕のない家庭では二、三十銭といっても大金である。欲しいもの読みたいものもあるが、その位の小遣銭も貰えない状態では何事も思いとまるより外はない。すべてがそんな風で、少年の知識欲は常に抑えられていた。妙に偏屈な性癖がかれにこびりついている。その原因がどこにあったか、それは最早《もはや》問わずとも知れたことである。そう思って見て、伸び伸びと生い立ち得なかった性情を、かれは一生の終りになって、自ら顧みて自ら憐んでいるのである。
『蓬莱曲』は幸いに同級生の一人が買って持っているのを知った。鶴見はそうと知った上は、少しも遅疑せずに、その友人の家へ出掛けて行った。本は貸してくれるという。同級というだけで、ふだん余りに言葉も交わさないでいた間柄であったが、読みたさの一念から学校帰りに臆面もなく、その家を尋ねて行ったのである。
 その友人は須藤といった。姓だけおぼえているに過ぎない。家は学校から間近の采女町《うねめちょう》にあった。医家で、その当時は随分と門戸を張って繁昌していた。薬局に使っている部屋も広く、若い人たちが大勢立ち働いて、調剤に忙がしい。その合間に「坊ちゃん、どうですね。あれからどうしました。面白いことがあったでしょう」などといって、友人の須藤の顔をのぞいて、ちょっとからかう、その賑《にぎ》やかさ。鶴見がひょっくり尋ねて行った時に、友人はたまたまこの薬局に出て来て、若い人々にたちまじって話しあっていたのである。
 鶴見は須藤の姿を見て、いきなりこういった。「きょうは学校を休んだね。病気か。」
「うん。ちょっとばかり体の工合《ぐあい》がわるかったのだ。たいしたことはないよ。」
「そうか。そんなら好いが。」無愛想な受け答をしていた鶴見は、それから案内されるままに奥へ通った。
 奥の八畳に病床が温かそうにしつらえてある。綿を厚く入れた蒲団《ふとん》にくるまって休養していられる身分である。どこといって格別悪いらしくもないが、どうしたものかたびたび寝るくせがついている。学校の方も欠席がちになる。須藤も好箇の若者であるが惜しいことには体が弱い。鶴見はそう思ってあたりを見まわした。
 室内は適度に保温されて、床脇《とこわき》の違い棚の上に華奢《きゃしゃ》な鶯の籠が載せてある。鶴見にはそれがこの室《へや》の表象ででもあるように目立って見えた。鶯は籠の中を時計の振子のようにあちこちと動いている。
「鶯は鳴きますか。」鶯は動いてはいたが鳴きはしなかった。それにひかされて、ついこんな間の抜けた口をきいたが、それが愚問であるのに、すぐ気が附きはしたものの弁解がましいことはしたくなかった。友人は寂しく笑った。
 須藤は背は高かったがひどく痩せぎすなたちで、前歯が虫に食われて味噌歯《みそっぱ》になっている。
 その味噌歯がこの男の面貌に愛敬を添えていた。それでも寂しく笑った時に、鶴見はそこに若者らしくない窶《やつ》れを見て取った。
 鶯によい鳴きぐせをつけるにはその方法がいろいろある。その躾《しつけ》かたについての話を一わたりきかされた。「何につけても修行が大切だね。」鶴見はそういおうとして、遂にその言葉を口に出さずにしまった。
 鶯の修行の話を長閑《のどか》にして、こうやって静かに寝てい
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