思われぬからである。多分に作者の特異な個性と空想とが全画面に混り合い、融け合っている。印象は重んずるが、その表現は物象に直接ではなくて、幻想のるつぼを通して来たものである。真の意味における創作である。
 海の水平線は画幀《がとう》の上部を狭く劃《かぎ》って、青灰色の天空が風に流れている。そこには島山《しまやま》の噴煙が靡《なび》き、雲が這《は》っている。地理的にいえばこの島山はこの絵を描いた位置からは少しわきにはずれているのであるが、青木はそれを知りつつも、ことさらに画の正面に移して据えた。青木の心眼にはそう見えるのである。この島山は伊豆の大島である。
 その天空の帯の下に、これも左に細く右へややひろがった青緑の海が動いている。ところどころに波頭《なみがしら》がたつ。その海が前方に迫るに従って海中の岩礁《がんしょう》に砕けてしぶきをあげる。更に前景には大きな岩礁が横たわり突き出ている。その間を潮流が湍津瀬《たぎつせ》をなして沸きあがり崩れ落ちる。岩礁には真夏の強い日光が反射する。紫褐色の地にめった無性《むしょう》に打たれた赤い斑点がちかちかと光ったり唸《うな》ったりしている。青木はこれをつつき廻していたので、蜂の巣蜂の巣といっていたが、その岩礁は蜂の巣というよりもむしろ怪獣のような巨大な生物に見える。狂乱に近い画家の精神が一種の自爆性を帯びて激しく発散する。いかなる怒濤《どとう》にも滅《ほろぼ》されまいとする情意の熱がそこに眩《まばゆ》いばかりの耀《かがや》きを放って、この海景の気分をまとめようとあせる。それほどまでにもこの岩礁は誰の目にも異様に映ずるのである。
 全画面はかくして、左から右へ、うしろから前へ、絶間なく揺すりどよめいて、動乱の極に達している。それがメヅウサの頭にもつれ絡《から》まる蛇をおもわせる。
 これが青木繁の若い時に描いた海景である。額縁《がくぶち》の横幅約二尺八寸、縦幅一尺八寸はあろうと思われる。
 鶴見は海と共に際涯《さいがい》もない感情を抱いてその画を丹念に見返し見返ししている。波と岩との争闘の外《ほか》に火と海との相剋がそこにある。揺すり動かし砕き去ろうとする狂瀾怒濤に抗して、不滅を叫ぶ興奮から岩礁はいやが上にも情熱の火を燃やす。遠空《とおぞら》にかすむ火山の円錐《えんすい》がこの死闘を静かに見おろして煙を噴《ふ》く。
 鶴見はその画の中に、人生における情熱と冷酷な現実との瞬間に縮められた永遠のたたかいを、ふいと見てとって深い深い息をつく。
 床《とこ》の間《ま》の壁に掛けた青木の画幀はその額縁を一つの窓として、そこからはユニクな海景が残りなく見わたされるようになっている。そう思っているうちに、鶴見には錯覚が起って来て、かれはいつの間にか、その窓からかれが往年の情熱的な争闘の生活を、食い入るばかりにしてながめていたのである。少年時にきざして、間歇的《かんけつてき》にかれを襲った性慾の経歴である。鶴見にもそういう時代がつづいたのであった。

 老刀自の傍にいることを鶴見は全く忘れていた。
「青木さんの絵は青木さんなりに特色があり過ぎるように思いますの。それで釣合がとれるかどうかわかりませんが、ちょっと何か活《い》けさせてもらいましょうか。」そういって、老刀自は片頬《かたほお》にさみしく笑う。
 鶴見はその声を聞いてびっくりした。急に覚醒した人がおぼえるように、胸には動悸が打って鳩尾《みぞおち》のところが冷《ひ》やりとする。これだけの心理の衝動を、身近にいる老刀自は感づいていないように見える。かれは妙だなと思う。しかしまたそんなことを考える自分もまた妙だなと思う。
 鶴見は黙っている。老刀自は裏山からかねて見つけておいた、すがれた秋草を取揃えて持って来て、李朝白磁の手頃なふっくりした花瓶に無造作《むぞうさ》に挿す。すすきの萎《な》えた穂と唐糸草《からいとそう》の実つきと、残りの赤い色を細かにつけた水引草《みずひきぐさ》と、それに刺《とげ》なしひいらぎの白い花を極めてあっさりと低くあしらったものである。至極の出来である。
「何という対照であろう。おれは気に入ったよ。おれはたった今青木の絵を仲立ちにして、若いおりの情熱の世界をまざまざとながめていたのだよ。そんな時代もね、もうとっくの昔の夢となった。おれも老いこんだよ。明日はどうなるだろう。どうなっても、それを自然であらせたいね。こうやって活けた花をのどかに見ておれば老境もわるくはない。そうじゃあるまいか。」
 鶴見は冗談だという風に見せかけて、そういって老刀自を顧みた。
 二人は床の間を前にして、じっとして寂しく笑う。
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  磁気嵐



 透谷の『蓬莱曲《ほうらいきょく》』が出た。鶴見の回想は今この本のイメエジをめぐって渦動をはじめるか
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