た至極の境へ、おれはこうやって倒れるまで探求の旅をつづけてゆくのだ。」
涯しのない荒涼たる曠野が展《ひろ》げられる。ただ暗灰色に鈍り澱《よど》んでいる天地の間に夕日が一筋、何かの啓示でもあるように流れている。とぼとぼと歩いてゆく姿が映る。枯木を杖にして道をたどっているのではあるまいか。そうして見れば人であろうか。それとも飢え衰えた獣《けもの》であろうか。鶴見はその後影《うしろかげ》を見送っている。それがだんだん小さくなる。かれはじっとしていて動かない。その顔色には無関心が少し意地悪そうな表情を装っているに過ぎない。それでもその表情のうちにだけ僅《わずか》に微《かす》かな生気が通《かよ》っているように思われる。
鶴見は老いてもまだたやすくは死ぬまいと決心したのである。
近ごろこれを読めといって文庫本の一冊を、知人が置いていった。鶴見はこれを感謝して、早速に披《ひら》いて見た。『ラサリーリョ・デ・トルメスおよびその幸運と不運との生涯』というのがこの小冊子の全題である。こんな風に長々と標榜したところに、いかにも中世らしい好みを、読むに先だって窺《うかが》うことが出来る。スペインの説話である。鶴見はそう思って、のどかな心持ちになって、何げなく巻を披くと、そのとっぱなから頭をがんとなぐられたように感じて、はっとする。疲れ切っていた心身も急に緊張してはずみだす。
ラサリーリョ少年が奸黠《かんかつ》な座頭《ざとう》の手引きとなって連れて行かれる途中で、橋飾りの牡牛《おうし》の石像に耳をつけて聞けばどえらい音がしているといって、座頭はいきなり少年の頭を石像にぶっつけたのである。そして悪魔よりちっとばかり利口になれるのだと笑っている。これで今まで無邪気であった少年は目を覚ました。生きる上には相応な智慧を持たねばならない。少年はこの座頭からこうしてその智慧を授《さず》かるのである。
鶴見はこの中世の説話を説話なりには聞いてはいられなかった。かれの心内には急激な衝動が起った。かれは己《おのれ》の身に引き当ててしみじみと感じたのである。これほどの活手段はあの『無門関』などにもちょっとなかったようである。
鶴見は考えてみた。いくら考えたところでかれの経歴には、幸か不幸か、この盲人の教訓のごときものを欠いていた。そのために開悟の機会を失ったかれは、誰からも生活に必要な智慧を授けられずに大事な時を無為に過してしまった。かれは既に老衰に及んで、よろよろしている。盲人ならぬ目開《めあ》きがかえって目を開けずにうろうろうろついている。そう思ってくるとまた考えずにはいられない。その上に更に考えようのないことを考えてみても解決はつかない。過去は悔《くや》まぬこと――かれは平生からそれだけの心構えはしていた。その根本さえ立てておけば好い。そう思ってみてもかれはやはり弱かった。自分の考に考え呆《ほう》けて、その挙句《あげく》ぼんやりする。
一旦古い説話に出てくる盲人の活手段を身に引き当てて蘇生のおもいをしたものの、それもその当座だけで、そのあとで鶴見はまた一層の疲労をおぼえた。実はこの一カ月ばかり前から、どういうものか、たあいもなくぐったりしていたのである。それではいけぬと反撥して、気を変えてみる手段をいよいよ実行することにした。このほどから客間も自由に使えるようになったので、床《とこ》の壁に青木の絵をかけるというだけの仕事である。それを億劫《おっくう》がって躊躇《ちゅうちょ》していたのを、今日はもはや猶予もせずに、直ちに老刀自《ろうとじ》を呼んで相談して、娘にいいつけて、青木の絵を取り出してかけさせた。
青木の絵が戦災から助かったのには、こんないきさつがある。衣類や蒲団《ふとん》などを少しばかり纏《まと》めて静岡市近郊の農家に預けた当時、急に思いついて、掛けてあった壁からおろして、古毛布にくるんだまま、蒲団の間に押込んでおいたものである。それがまだそのままにしてある。あちらこちらと持ち運んで来たものであるが、毛布を剥《は》いで見れば、どこにも損傷がない。それを見て鶴見は無性《むしょう》に嬉しがる。
多数の蔵書はその殆どすべてを焼いてしまった。それであるのに、この一|幀《とう》の画を戦火から救っておこうとした、あの発作的の行動は、そもそもどこから生れて来たものであろうか。鶴見にはそれも一つの不思議である。
とにかく青木の画は、戦災から救われたのである。娘の静代がその絵を床の壁に掛けるのに骨を折っている。油絵には珍らしい横長の型である。しばらくするとそれが工合よく掛けられた。
故友の青木繁はその絵を房州の布良《めら》で描いた。一見印象派風のものであるが、故人は単に写実を目あてに筆を運んだものであろうか。鶴見はうべなわない。かれにはどうしてもそうは
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