を家庭の憂鬱から紛《まぎ》らかした。自然というような広汎な抽象的観念がここに少しく開かれて、今までに覚えなかった快楽をかれの方にさし向けて来た。理性が漸《ようや》くその機能の蠕動《ぜんどう》をもって自覚の徴候を示すようになって来たのである。しかしとんぼの代りに名利《みょうり》を釣る。世間の誰しもがそういう考になる。そんな平俗の意味すらかれにははっきりとしていなかった。随って名利に対する興味が浅かった。つまるところ、かれには欲望の発達が、どこか性情に欠陥があって、他よりも鈍っていたものとも思われる。その穴を自然が来てうずめてくれたのである。

 少年の鶴見は当時の風潮に従って新聞では『読売』、雑誌では『国民之友』を読むことにした。新聞はとにかく、雑誌を毎号手にするということはこれがはじめてである。明治二十三年の新年からであった。『国民之友』は春秋二期に文芸附録を添える。前年の新年にはS・S・Sの「於母影《おもかげ》」が載せられ、ことしは鴎外署名の「舞姫」が附録の巻頭を飾った。その書き出しが素晴しかった。今までに全く知られなかった新味と独特の風格とを併せ備えた名文章である。少年のかれは一読するや直ちに魅惑せられてしまった。古びることを知らぬ文章というものがそこに展開せられているのである。ただ一つその文章のなかで分らぬことがあった。ニルアドミラリということである。うぶな少年にはついぞ経験せぬ心的状態である。それは聡明な鴎外が不満足感を洩《も》らすために、たまたま気をぬいて見せた、いわば精神的に贅沢《ぜいたく》なあそびの態度である。ニルアドミラリが分らぬといっても無理はない。
 かれに取っては名利を釣るということもまた同様であった。言葉と文字とは分っていても、その実際に達するにはまだまだ遠かった。父親はかれのためには医学を望んでいた。そのことはかねて薄々聞かされてはいたのだが、痛切には感じなかった。そのかれにも欲求があったとすれば、それは自由に出来る仕事である。それは仕事とはいわれなかった。そこにはただ空想の動きがあったばかりである。
 そうした空想に応ずる自由な雰囲気のなかで、かれは文芸と手を組むことをおぼえだした。そして勝手気儘な道をたどって行くようになった。正道を逸《そ》れることがあっても何とも思わない。埒《らち》があれば埒を踏み越えて行く。文芸との親しみは日ごとに深くなる。それが病みつきとなって、遂には切っても切れぬ仲となったのである。

 縁といい約束といえば、いつも絆《ほだ》されているように想像されるが、その中には自由はある。法悦さえ感ずることがある。そんな予感が文芸に絆された少年の心に媚《こ》びる。未知の境界《きょうがい》がこの少年を招き寄せる。迎えるものがあって迎えられるように思うのである。かれが気がついた時には、最早《もはや》深入りしていた。そして名利の方の欲は一切忘れてしまった。とはいえ、その事は生への執著を一切離れてしまったことにはならない。執著心はかえってますます増益する。文芸道にたずさわることは容易なものでない。そのわけが追々に分明になる。魔性の手が脅威の矛先《ほこさき》を向ける。それが絶間なくかれを苦しめる。その苦悩をも凌《しの》いで、なお法悦を見出そうとして、かれは一生を賭《か》けてしまった。漂泊の魂のためには、涯《はて》しも知らぬ曠野の旅である。それにもかかわらず、かれは少年時の甘い夢を見つづけている。しかもその夢の再現がまたかれを苦しめる。見返すたびごとにその影像が無慈悲と思われるまでに鮮明の度を増す。鶴見にはすべてが今や絶望のように感じられる。「おれの夢は明瞭すぎるほど明瞭な輪廓と人の胸を突き刺す鋭角とをもった形式ばかりのものとなって示される。それも好い。おれはなお自由と法悦とを求めて止まない。探求の苦しい旅はどこまでもつづけて行く。」
 鶴見の目の前には幻滅の夢の殻が残されているばかりである。「刻薄《こくはく》の現実はどこまでも刻薄であれよ。おれはそう思って、現実に抗して現実の無意義と無内容とを観じようとすれば、現実はその骨骼《こっかく》ばかりの機構を露呈して、かえっておれの無知を責めてかかる。おれはその背後に虚無を見る。おれにはおれの立場がある。おれにはおれの為すべきことがある。おれは現実から刻薄の毒素を絞り取って、徐《おもむ》ろにそれを苦悩の杯《さかずき》に滴《したた》らしめる。おれは早晩その杯を傾けねばならない。毒液と知りつつそれを飲み乾さねばならない。」
 鶴見は目をつぶってじっとしている。息をこらしている。しばらくあってまた目を開ける。その目は外に向けられずに、ひたすら心の奥底を見透しでもするように、目蓋《まぶた》の下で静かに廻転している。「少年時に夢みた自由と法悦――その宝器の隠くされ
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