た丸太のてっぺんなどに羽を休めることである。さてその日も暮れかかってくると、普通のやんまが夥《おびただ》しく集まってくる。それが町の四辻《よつつじ》に渦を巻いて飛び交わしている。そのやんまの両性をおんちょ・めんちょといって呼び別けていた。交尾のために集まったやんまに違いないのである。
子供たちはそこを目がけて竿でめった打ちにするものもあれば、趣向を変えて、とんぼ釣をすることもある。とんぼ釣といっても、これは計略で、あながちに釣り落すのである。計略とはいえ至極簡単なもので、女の髪の毛一筋あれば事足りるのである。その髪の毛の両端に小石を反故紙《ほごがみ》にくるんで結びつける。仕掛けはそれだけで済む。それを手早く拵《こしら》えて、持っていって、あてもなくやんまのかがいの中に放り上げる。引っかかったやんまこそ災難である。やんまは首筋を髪の毛にはさまれて、その両端につけた小石の重みに圧されて落ちてくる。それによっても推量されるようにやんまは一箇所に押合っている。二、三百は飛んでいたろうかと思う。取れた獲物は籠に入れたり、手の指の股に挿んだりする。
およそとんぼのことといえば夢中になっていたのである。取ったとんぼは鈴虫のように好い音を聞かせるでもない。ただそれだけのなぐさみに過ぎなかったが、それでも籠に入れ持って歩いた。子供仲間でとんぼ草と呼んでいたものが、乾いた溝の縁なんどに生えている。紫褐色の肉の厚い葉を平たく伸している雑草である。※[#「くさかんむり/見」、第3水準1−90−89]《ひゆ》の種類でもあろうか。その草を摘《つ》んで籠の中のとんぼにやったりする。果してとんぼがその草の葉を食べるものか、それはどうでも好かった。ただそういうことをするのが、何というわけもなしに、面白かったのである。
しかるに昨年の秋になって、転出先から疲れ切った翼を休めにもとの古巣に戻って来て、さて今年の夏になって見ると、裏庭を畑におこしたそのあとの土に、この久しく忘れていたとんぼ草が一面にはびこり出したのを発見した。それを見ると、幼時の日常が思い出されるといって、鶴見はつくづくと懐かしがっているのである。
幼年期のこうした回想もいよいよとんぼ釣で終末を告げる。鶴見は中学に入って急に大人びて来たからである。世間もそれと同時にめまぐるしく変っていった。二十二年、二十三年には憲法が発布され、議会が開設される。万事が改まって新しく明るくはなったが、また騒がしくもなった。その騒しさが少年の心を弥《いや》が上にも刺戟した。まだ社会の裏面を渾沌《こんとん》として動きつつあった思想が、時としては激情の形で迸《ほとばし》り出《で》ようとすることがある。
憲法発布の日には、時の文相|森有礼《もりありのり》が暴漢のために刺殺された。事実の痛ましさはめでたい記念日の賑《にぎわ》いに浮き立っていた誰しもの胸を打った。しかしその惨事が国運にどれだけの意義を持っていたかは、当時の少年などに分ろうはずもなかった。ひとり少年とはいわず、然るべき識者にしても恐らくそうであったと思われる。一口にいえば文明開化と国粋思想の相剋《そうこく》である。それが将来に如何なる展開を示すものか、その意義を正しく認識し批判し得るものは恐らく稀であったろうと思う。世間では大部分雷同して森文相の自由主義を攻撃していた。それでも外国文化の移入は国粋思想の抵抗によってそれほどの影響も受けずに、むしろ両々《りょうりょう》相待って進んで行った。国学の再興にしても、その根蔕《こんたい》には文化に対する新しい見解が含まれていた。
時代思潮は暗黙の裡《うち》に進んでゆく。無理をしてまで押通そうとするのではない。いわば社会を動かす全生命の力である。物をも言わずに絶えず物を言っている。そういうところにその強みがある。創造の能力がそこに見られるからである。鶴見の少年期はそんな時代の波をくぐって来た。その一事を生涯のよろこびとすることを、彼は私《ひそ》かに誇りとしている。そのよろこびの中でかれはこれまで幾度か若返って来たのである。今でもそうである。「おれにはそうとしか思われぬ」といって、かれはその時代に対する讃美を惜しんでいない。
とんぼ釣をやめて急に大人びたかれは、とんぼの代りにこれから先釣り出して見たいと思うものを、空想のかたちにおいてでも持っていなければならぬはずであった。かれにはそういう考がなかった。この時になってもまだ自己について何らの思量をも加えずにうっかりとしていた。人生を無意識に遊戯の場地と見なす癖は改まっていない。家庭でこそかれを強圧するものがあり、畏縮《いしゅく》させるものがあったとはいえ、一たび外に出れば、そこには自由な小天地がかれをここちよく迎えてくれた。とんぼの代りに自然を観察することが、かれ
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