筆が挿してある外にペン軸が交《まじ》って見える。その横にインキ壺が備えつけてある。朝日が射し込むとそのペン先が忽《たちま》ち金色に輝き出す。インキ壺の切子《きりこ》の角が閃光を放つ。机上の左の方には二、三冊の洋書が無造作《むぞうさ》に置いてある。簡素で、たったそれだけの道具立てであるが、鶴見は朝々それらを目にするたびに、そこにどうやら身に迫ってくる時代の新鮮味をおぼえるのである。
 この部屋の主人公である若い未亡人はカトリックの尼さんたちと懇意にしていたが、そのころ発展の気運に向っていた女子教養のためのミッションスクウルが、麹町|四《よ》ツ谷《や》見附《みつけ》内に開設せられ、西岡未亡人がその学校の校長に推されているというようなことなども段々知らされた。この未亡人が鶴見の結婚の仲介もし、その前年の日露戦役の終った年の暮には、あわただしく病に倒れた鶴見の老父の葬儀にも彼は格別の世話を受けた。このたびの戦時中、八十幾歳で亡くなったが、鶴見は父の死後少しも変らずに長く附き合っていたのはこの夫人だけである。

 鶴見はこんなことを思っている。――西岡夫人は実際特異の存在であった。時代を識《し》り時代に順応して、八十幾歳の長い生涯に複雑な経歴を閲《けみ》しつつ、しかも平凡に、そのために更に自由に身を処して、未亡人として思うままの享楽も為尽《しつく》して、晩年は二、三の知名の士の夫人と同好の仲間を作って、観劇に老を忘れていた。世間のことなら何もかも知りぬいていながら、飽きて退屈するような素振《そぶり》は少しも表に現わさない。それだけに老いてもくずおれるということがなかった。そしていつも優雅な言葉つき、そうかと思えば随分と放胆な調子も厭《いと》わぬ言葉のあやと表情|饒《ゆた》かな微妙な振舞とに溢れるばかりの才気を見せる。西岡未亡人にはそういうような、他に優れた特質の美が目立っていた。引きつづいてカトリックに信仰を持っていたとは言えなかったが、その薫染がどこやらに残っていて、未亡人に接するたびにその匂いをかぐように感ぜられた。とにもかくにも未亡人はこの宗教と死ぬまでも縁を切らないでいたのである。
 西岡夫人はすでに他界したが、鶴見には夫人は第三者としてではなくて、もっと身近にいつまでもいてくれる。鶴見はふと気がついてそんな風な考にはまり込む時がある。夫人の生涯を鶴見は自個の生涯の上にも見たのである。
「おれの生涯は敏慧で親切で寛容な夫人の優雅な言葉を縫糸《ぬいいと》にしてはじめて仕立てられた一領の衣である。おれにはそう思われて仕方がない。清新と自主と自由とが縫い目縫い目に現われている。野性に圧された重たい麻衣の上に少しばかりの柔靭《じゅうじん》さが加わったとすれば、あの不思議な縫糸と自然な運針とを仔細《しさい》にあらためて見ねばならない。そこにはあの奥深い情味のこもった宗教の香味がそこはかとなく匂っているのである。
 冥々《めいめい》の化ということがある。夫人の長い生涯の間の感化がそれである。いつとは知れず、その感化がおれの体に浸み込んだのだ。そしてそれが冥々の裡《うち》におれの思想を支配していたのでもあったかのように反省される。この夫人ならおれの生母のいきさつをも熟知していたかも知れない。おれはおりおり聞いて見ようとしたが、口には出せなかった。おれにはつまらぬ片意地がある。それでいつも損ばかりしている。夫人は不幸なおれの境遇をよく知っていたので、余計に孤児としてのおれを憐んでいたのかも知れない。」鶴見はそう思って、この夫人に特に感謝の念を致しているのである。

 鶴見は明治二十年に府立の中学に入校した。中学の校舎は木挽町《こびきちょう》の歌舞伎座の前を通り過ぎて橋を渡ると直ぐ右角の地所を占めていた。かれが出養生をしていた塩湯とは堀割を隔てて筋向いになっている。
 鶴見はもう幼年期を終って立派に少年時代に入る。独楽《こま》や凧《たこ》や竹馬《たけうま》や根《ね》っ木《き》やらは棄てられねばならない。鶴見はそのなかでも独楽は得意で、近所の町屋の子や貧民の子らと共に天下取りをやった。その外にめんこもやった。とんぼも追いかけ廻した。殊にとんぼには興味をもっていた。どうしてそんなに沢山いたかと思われるほど、とんぼが飛んでいた。種類も多かった。しおからやむぎわらは問題にならない。虎やんまもいたし、車やんまもいた。そしてそれを珍重がっていた。虎やんまは往来を低く飛んできて、たちまちのうちにもち竿《ざお》の陣を突破してしまう。虎やんまの出るのは主《おも》に日盛りの時分である。なかなか手におえぬところに次の機会が期待される。車やんまというのは虎やんまに似ていたが尾の先に車の半輪のような格好をした鰭《ひれ》がついている。特性としては、物干《ものほし》の柱に立て
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