家族は困り切って、寄るとさわると、窮乏の話をひそひそとしていた。今度の継母は父と同じ藩の然るべき武士の家から出ていたので、そういう窮乏組の女たちがよく尋ねて来て、繰《く》り言《ごと》をいって、為すこともなく一日を暮らして行った。
継母は継母で一家の経済を極端につましくした。
これまでぼんやり育って来た鶴見にはまだ買物をする呼吸がわからない。いつでも同じ事であるが、その頃の商人はことにこすかった。こすいのはまだ好いがごまかしをやった。空缶《あきかん》を持って行って煎餅《せんべい》を買いにやられる。買って来ると、
「何といって買ったの。」継母から意外な問が出る。
「この缶にいくらだけ入れてくださいといいました。」鶴見にはまだ様子がわからないので、そういって正直なところを打あける。
「そんな迂濶《うかつ》なことで好いのかね。これからは品物を缶に入れさせて置いて、これでいくらと聞いてみるのだね。ごまかされるよ。」
事ごとにこんな風にたしなめられて今までに覚えぬつらさを感じた。
鶴見はこうして、日々に鍛え上げられる。些細《ささい》なことのようであるが、それでも効果はあった。鞭《むち》をあげているのは継母の手を借りた人生の世智辛《せちがら》さであるということが、追々に納得が出来るようになる。人心の機微を察するということも、こうしているうちに、見当がつくようになる。鶴見にはそれだけの変化が起った。
継母は継母らしく振舞ったのである。鶴見はそう思って、別段に悪感情も懐《いだ》かずにじっとしていた。
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宿命的孤独と自由
まだ中学に入らぬ少し前のころであった。多分明治十九年も押詰まった暮のことであったかと思う。その年ひどく流行した麻疹《はしか》に感染して、一応はどうやら癒《なお》ったものの、病毒が廻って全身に吹出物《ふきでもの》を生じた。薬湯《くすりゆ》に連れて行くにもあまり見苦しいので家人も億劫《おっくう》がっていたところ、西岡という若い未亡人が来て、自分の遣《や》らせている塩湯はどうだろうと勧《すす》めてくれた。家人のためには渡りに船であった。
塩湯というのは京橋|木挽町河岸《こびきちょうがし》にあった。そんなわけで鶴見はさっそくそこへ遣られた。出養生《でようじょう》である。幼少の鶴見にとっては、これが家庭以外の世間というものにはじめて触れて、未知の境界《きょうがい》を少しずつ知る機縁となった。
鶴見はその塩湯に寝どまりすることになって、万事は西岡の若い未亡人がよいように取運んでくれた。朝早くまだ誰も入浴に来ないうちを見計らって、風呂の蓋《ふた》を開けてもらい、湯気の盛んに立つ綺麗な湯につかるのである。鶴見ははからずも一番風呂の贅沢を独占する。その上にも一しょに入る未亡人からは、流し場で、一面に瘡《かさ》になった体をたでてもらえる。そのおりのことを、彼はいつまでも忘れないでいる。かほどまでに親身になってかばわれたのは、彼にはかつてなかったためしである。
父とは同国の出身で、夙《はや》くから病気療養に対するその効用を認めて海水温浴を主唱し、少しは世に知られていた医家があった。西岡である。西岡は不幸にして志も達せずに歿したが生前の主張が一つの果実を結んで、それが未亡人の手に遺《のこ》されていた。芝浦の塩湯と呼ばれて、その後も幾多の変遷を経て、ずっとその遺業はつづけられた、塩湯の方はおいおい附帯のように成っていったが、芝浦館といえば東京では知らぬ人はまずなかったといって好かろう。
西岡未亡人の家にはそんなわけで、西岡医院開設当時に贈られた蒼海翁《そうかいおう》のあの雄勁《ゆうけい》な筆力を見せた大字の扁額《へんがく》を持ち伝えていた。鶴見が幼い観察から、急傾斜になっている海面にひっくり返りもせずに小蒸汽船の動いてゆくのを見たというのは、その塩湯でのことであった。木挽町の塩湯はいわばその分身のようなものである。越後長岡の出で、どういう因縁のあってのことか、左団次|贔屓《びいき》の婆さんが頭《かしら》だって切り廻していた。場所柄でもあり、また婆さんの趣味も加わって、築地辺に住んでいる名うての俳優の家族などにもその宣伝がきいたと見えて、その連中が常連として入浴に出掛けて来る。そう聞かされて見れば、子供心にもなるほどとうなずかれる。流し場の隅に積み重ねてある留桶《とめおけ》のなかで三升《みます》の紋《もん》などが光っていたからである。
西岡の若い未亡人はその塩湯の奥座敷を自分の部屋として占めていた。縁側《えんがわ》寄りの中硝子《なかガラス》の障子《しょうじ》の前に文机《ふづくえ》がかたの如く据えてある。派手な卓布がかかっている。その一事のみがこの部屋の主人の若い女性であるのを思わせている。筆立には二、三本毛
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