つも優等であった。この姉がいたばかりに、中学に通うようになるまでを、幼いなりに余り歪められもせずに生い立つことが出来た。そう思って、鶴見は往昔《おうせき》を追想してなつかしがっている。その姉ももうとうに亡くなった。

 明治二十年に小学の業を終え、直に府立の中学へ入校したのだが、この年に父は後妻として村山氏を家に納《い》れた。鶴見はここに継母を持つことになったのである。鶴見が※[#「兀のにょうの形+王」、第3水準1−47−62]弱《おうじゃく》な小供で意気地のないことを諷して、後年に至るまで、姉は気性がすぐれていたといってよく誉めていた。それで見ると、姉が国に帰ったのはこの年も晩《おそ》いころであったろうか。
 鶴見は姉と肩をならべながら、『新体詩歌』の中の自由の歌やハムレットの独白なんぞを誦《そらん》じて、街頭を歌って歩いた。この『新体詩歌』は有名な『新体詩抄』の民間版ともいうべきもので、明治十六年にはその第五集を出している。鶴見が今持っているこの小冊子は奥附《おくづけ》を見ると十九年二月の出版となっている。この書は岩野泡鳴から譲り受けたもので、その当時鶴見が手にした袖珍本《しゅうちんぼん》と版式に変りはない。そうしてみれば、彼がその本を読んで感動した年代もほぼ明らかになる。今までに類のない新しい歌を歌って町を歩いたことがそう突飛とも思われなかったというのは時勢であろう。その時勢に応じて、いつとなく少年なるべき彼の心に、やがて意志の自由や個性の発現が望まれるようになっていたと解しても好かろう。新時代は確にこうした道をたどってその波動をひろめつつあったのである。

 生母に別れた後の鶴見は、親身《しんみ》になって世話をやいてくれるものは誰一人なく、一旦棄てられた小供がまた拾われてかつがつ養われていたような気分に纏《まと》われていた。それにもかかわらず、時勢にふさわしい歌を朗かにうたって、鬱屈した精神を素直に伸してゆけたことは全く姉のおかげであった。
 しかるに継母が来て、干渉がはじまった。その干渉の裏には棘《とげ》があった。
 姉は好い時機に国へ立って行った。それと共に姉は好い時分に東京にいたともいえる。
 毛糸の編みものがその頃流行していた。そういう手工《しゅこう》にも姉は器用であった。あの鹿鳴館に貴婦人たちが集って、井上外交の華やかさを、その繊手《せんしゅ》と嬌笑《きょうしょう》とをもって飾った時代である。有名なのは夜会の舞踏であった。昼間はバザアが催された。姉は相当な官吏の女であるというので、勧められて編物も少しは出品したが、要するに売子に雇い上げられたのである。それはそれで好い。鶴見も絹の袴《はかま》に紋附《もんつき》を着て、叔母に連れられて後から出掛けて行った。
 そこでは休憩室で、珈琲《コーヒー》とカステイラを頂戴する。立派な椅子にも腰かけられる。バザアも覗《のぞ》く。姉も鶴見もいわゆる文明開化の誇示をまのあたりに見て、珍らしい経験を得て帰って来たことをおぼえている。忘れえぬ感銘の一つである。

 明治十八年には官制の大変革があった。
 父は許される限りの出世をして、文部書記官に昇進する。それは好いが、新官制によって定めたとおり、父も遽《にわか》に大礼服《たいれいふく》というものを誂《あつら》えて一着に及んだ。父には到底似合もせぬしろものである。御用商人の手で最上等に仕立てられた。肩や胸には金モオルがこてこてと光っている。それに外套《がいとう》の仰山《ぎょうさん》さには一同びっくりした。こんな物を引掛けては小さい人力車《じんりきしゃ》などには乗れそうもない。是非馬車が必要になるといって、皆あきれて、あとでは笑いこけた。それほど偉大な怪物であったのである。父もたった一度身につけたなりで、またと再び大礼服に手を通すことはなかった。
 父は出世するだけ出世して罷《や》めさせられたのである。それを非職と称していた。その後は嘱託という名義で、仕事はこれまでと余り変らずに、主として地方への出張を続けていた。もちろんそれも四、五年の間であった。
 姉は父の全盛を見て国へ帰って行ったのである。暫くの間であったが、風月《ふうげつ》の洋菓子などふんだんにあった。ボンボンといって一粒ごとにいろいろの銘酒を入れた球状の菓子もある。父はそんなものには目もくれず、カステイラなどはいつでも黴《かび》が生える。それでも手をつけさせなかった。家族のものは勿体《もったい》ないといったが、どうにもならない。

 官制の改革は多数の犠牲者を出した。安穏《あんのん》に眠を貪《むさぼ》っていた官吏社会をはじめての恐慌が襲ったのである。維新当座どさくさまぎれに登用された武士階級中の老年者とか無能者とか、たいていそういう人々が淘汰《とうた》された。そういう人々の
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