あの静岡の乗杉さんね。その後はどうしていることか。こちらからも、済まないとは知りながら、そのままになってしまっているが。」
「ええ。その乗杉さんでございましたのでしょう。あの小さな紙切れに俳句とかを書いて、焼け瓦の間に挿んでお置きになったのを、わたくしが見つけ出して持ってまいりました。それなりになっていますね。」
「おれも今それを見直そうと思っているところだ。あった、あった。その紙切れはここに貼《は》りつけてあるよ。」
日記にはその日の記事の傍《わき》に紙切れが丹念に貼りつけてある。小さな伝票用紙である。俳句は走り書きにしたためてあって、極めて読みにくい。
[#天から3字下げ]万巻の書灰は夏の蝶と舞ひ
そのように判読される。最初は「蝶と飛び」と据《す》えてあったのを「蝶と舞ひ」に直してある。そういうところも筆あとをたどって見れば、ほぼ推量される。鶴見はその事をひどく面白いように思っている。戦災直後焼け跡に見舞に来て、それだけの余裕を保っていた。その証拠がたまたまこの小さな伝票の上に残されている。鶴見はその事を知って面白いと思っているのである。乗杉の住居《すまい》も無論同時に罹災《りさい》していたに違いない。いろいろ思い合わせればなお更のことである。俳句の下には吐志亭と署名してある。
「この吐志亭とあるのが乗杉さんの俳号なのだよ。」鶴見はそういって、なつかしそうに、その日その所で伝票を引きちぎって即吟を書きつけている乗杉の姿を想像にえがいている。
この乗杉はもともと静岡市きってのしにせの主人で、眼鏡を商《あきな》って地味な家業をつづけていたが、呉服町《ごふくちょう》の乗杉といえば誰知らぬものもなかった。乗杉はまた地方の民俗から文化史方面のことにわたって、その造詣が深かった。現に戦災の前まで、静岡の新聞に府中の町人史を連載していた。その乗杉が店の方を閉めてから、つい先年まで清水市史の編纂にたずさわっていた。そのうちに戦争が追々不利に陥ったとき、市では市史編纂を閑事業として、用捨《ようしゃ》なく予算を削ってしまった。乗杉はそういう市の処置を歎いていたが、それから間もなくさる会社の事務員を勤めることになった。「万巻の書灰」の句を書くために伝票が使われたのは、そういうわけからである。
鶴見の心のなかでは、今しきりに幻想が渦を巻いている。乗杉がいったように万巻は甚《はなは》だ誇張であるが、執著《しゅうちゃく》の書灰が蝶と化して、その幻想をいよいよ掻きたてて、ちらちらと舞を舞っているのが見えるようである。鶴見は現在自分の内部に沸《わ》き立《た》っているこの幻想を、少し離れたところからながめていられるようになっている。それがせめてもの心遣《こころや》りであろう。
[#改ページ]
種子開顕
珍らしく景彦《かげひこ》が遣《や》って来た。景彦は人には姿を見せたことがない。ただ鶴見にだけはその面影が立って見えるのである。笑いもするし、怒りもするし、また生真面目《きまじめ》にもなる。その度ごとに速《すみやか》に変る表情を鶴見は目ざとくたどって、少しく不気味に思うこともある。どうかすると彼は神々にも鬼畜にも、忽《たちま》ちのうちに変貌する。常に分身であり、伴侶であり、かつまた警告者である。気随気儘なしれもので、いつ遣ってくるとも予想されない。とにかく彼の行動は出没自在である。きょうもどこからともなく、ついと入り来って鶴見と対座した。
鶴見も心得ているので、微笑しながら、「やあ、暫くだったね」といって彼を迎えた。
「暫くでした」といったきり、景彦はあいそもこそもない態度を取っていたが、ふと気附いたという口振で、「いや、あなたも随分不自由な生活をしてお出《いで》になる。お気の毒だと思って、つい控え目になったのです。」
鶴見はいった。「そんなお人柄かい。おれがまだ農家に転出していた時のことだ。覚えているだろう。しかも夜半だった。おれは小用をしに立って、潜《くぐ》り戸《ど》の桟《さん》をはずして表に出る。暗さは暗し、農家のこととて厠《かわや》は外に設けてある。ちょうど雨滴落《あまだれお》ちのところで物に躓《つまず》いて仰向《あおむ》けに倒れたね。そして後頭部をしたたか打った。おれはその時死ぬ思いをして苦しんでいたのだ。そこへ君がひょっこり遣って来て、何をしていたかね。手一つ貸そうともせずに、ただ傍観して、冷やかに見おろしていたじゃないか。それだのに、きょうはまた余りに殊勝らしいね。でも好いよ。冗談でも何でも好いから話し合おう。まあ、ゆっくりするさ。」
「そうですか。あの時のことですか。あなたがあれぐらいのことで、ほんとうに死ぬものとは信じていなかったからです。ちと仰山《ぎょうさん》すぎましたな。それはそうとして、この窮屈な世の中で困った
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