るとのことである。
 桟敷は社外の畑に多数設けられてある。丘陵の側面などにも点々として灯が見える。その界隈《かいわい》一体に人が充満していて動きが取れない。甲州辺からも遣《や》って来る見物客もあるという話である。やがて打揚がぽんぽんとあがる。桟敷では歌謡の斉唱がはじまる。一方からそれが起ると忽《たちま》ちに四方に伝播《でんぱ》する。そして幾度も反復される。田の蛙の鳴き交す声々の嵐そのままに感ぜられる。
 そのうちにいよいよ流星に火が附くというものがある。正直のところ鶴見ははじめからそれほどの大光景が見られるものとは期待していなかった。それがまたどうしたことか、五彩の星が乱れ飛んだぐらいで終ってしまった。あまりにもあっけない。「あれは遣りそこなったのだ」といって皆が失望している。流星は長い間の伝統を維持して来ただけに、構造製作が原始的であるのは免《まぬ》かれ難い。しかもここ数年中止していた挙句《あげく》のことで、余計|不手際《ふてぎわ》になったのであろう。それでも鶴見は満足した。鶴見としては彼の花火に関する閲歴にめずらしい一例を加え得たのである。米国大統領の観覧に供した両国橋|畔《ほとり》の大花火のことが自然に想起される。それは母に抱かれていた幼時のこと、これは草深い地方の田園で由緒ある花火に興じたこと、恐らくはこれがおれの花火に関する閲歴のとじめになるだろう。鶴見はそう思ってみて、更に深い感慨に耽《ふけ》るのである。

 さて元へ戻るにしても、母の膝にあがって仕掛花火に火のつく度《たび》ごとに手を拍《う》ってよろこんだ元の桟敷へは戻れない。深々と幌《ほろ》をかけた車の中で、帰路を急がせる切ない思いをして、母はしっかり幼児を抱えている。花火見物の最中に天候が一変してひどい雷雨となったからである。電光が幌を破るようにして隙間《すきま》から射し込んで来る。おりおり神解《かみと》けがするもようである。凄《すさま》じいその音響に湿気を帯びた重い空気がびりびりと震動する。
 このありさまに車夫も走るのをためらって、暫くのあいだ車を駐《と》めた。そこはとある店屋の前であった。
 ここに不思議な記憶の破片が残っていて、その店屋の菓子屋であるということが確められる。車を駐めたのは日本橋の裏通りあたりではなかったかと、ついそんな気がさせられる場所である。あとから立ち入って考えて見れば、車をそこに駐めたのは、母が名物のみやげでも買うつもりであったかとも思われる。それはともかく、そういうところが菓子屋であるという、店の格好から来る印象は前々から既に強く受けていたものがあったにちがいない。幼いなりに、またそれだけに、そういう印象を拠りどころにして、無意識にもせよ、それとこれとを比較する能力をいつかしらに蓄えていたにちがいない。その比較の証拠に立つのは麹町三丁目の船橋である。
 船橋は有名な古肆《こし》で、御菓子司《おかしづかさ》の称号を暖簾《のれん》に染め出していた御用達《ごようたし》である。屋号を朱漆《しゅうるし》で書いた墨塗の菓子箱が奥深く積み重ねてあって、派手な飾りつけは見せていない。番頭《ばんとう》がその箱を持って来たり、持って行ったりして、物静かに立ち働いている。すべてが地味で堅実らしい。その店へよく母に連れられて行った。それをしっかり覚えているのである。たまたま雷雨に阻《はば》まれて車を駐めたその店がちょうど船橋と同じ格好である。そんなわけから、その店が菓子屋であったということを、今だに疑わずにいる。

 その四。西郷星というものが出るといっておどかされていた。どんな恐しい星であろうか、臆病な鶴見はついに見ずにしまった。そのころのことである。島原の新富座《しんとみざ》で西郷隆盛の新作の芝居が打たれた。あれは多分|黙阿弥《もくあみ》の脚色に成ったものであったろう。連日の大入であったそうである。この芝居へも母に連れられて見に行ったものの、平土間《ひらどま》はもとよりどの桟敷も超満員で、その上に入り込むだけの余裕がない。なんでも座頭《ざがしら》の席とかで、正面の高いところへ無理に押し上げられた。そこまでは幽《かす》かにおぼえているが、印象はそこで消えて、その先は思い出せない。その代りここまでくると年代はよほど明かになる。この芝居も折から来朝中の米国大統領グランド将軍の観覧に供えたものという。もしそうとすれば明治十二年である。果してこの年であれば鶴見が戸籍面四歳の時である。

 もっと零細な記憶の破片なら幾らでも拾われよう。そうは思うものの、その数はいたって少ないものである。漸く拾いあげたものを次に列挙する。
 多摩川《たまがわ》の渡し場。そこから川上に富士を仰ぎ見たこと。これは大師詣の途《みち》すがらであったのだろう。それから品川の料亭で、愛想の
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