好いお酌《しゃく》に、「坊ちゃん。あそこをご覧なさい。お舟がきれいに明りをつけていごいていますね。」少女はそんな言葉をささやいた。母に連れられて、どうしてそんな場所に来ていたものか、それは判らない。まだも一つ。それは麻布《あざぶ》の森元座《もりもとざ》で、佐倉宗五郎の磔刑に処せられる芝居を見たこと。四谷の桐座《きりざ》へも行ったこと。その頃は何かというと観劇である。それで見ても母の好みのほどがどうであったかが窺《うかが》われる。
 先ず鶴見が四、五歳ぐらいまでの思い出としては以上のようなものである。

 それにしても母に連れられて物見遊山《ものみゆさん》に出歩いた享楽の日も、やがて終末を告げねばならなくなった。
 明治十三年、五歳の時平河小学に入校。同十五年には今までの古い家を壊して、その跡に新築することになり、傍《そば》にあった小屋で一冬を過すことになった。郷里から次姉が迎えられたが、この不自由な佗住居《わびずまい》で炊事《すいじ》の手伝をしていた。ささやかな菜園にわずかに萌《も》え出《で》た小松菜《こまつな》を摘んで朝々の味噌汁の仕度《したく》をする。そんな生活の様子がまざまざと思い出される。菜園にはまだ雪が消え残っていたのである。
 その翌十六年には、父が生母を離別した。鶴見がためには大きな生涯の変動が生じたのである。たまたま国から上って来た姉も貰い泣きをした。母の引き取られていた家へ二人で行くことを、さすがに厳しい父も、一度は許してくれた。その家は芝|明舟町《あけふねちょう》の路次《ろじ》の中にあった。左手は上り口で、右手には勝手の明《あか》り障子《しょうじ》が嵌《は》めてあって、それに油で二重の波形の模様が描いてある。そんな家である。二人はそこで泣き通した。

 幼時の記憶はとかくはっきりしていない。そこには一貫した糸も見えず、連続した関係もうまくたどれない。ただそれが思量の或る一角に置かれた時、結晶体に予想せられるように、その一部分がどうかすると、ふと強い光を放つことがある。それだけである。もしこれがアナトオル・フランスであったなら、こんな幼時の些少《さしょう》な砕《くだ》けた感動の種子からも、丹誠して見事な花を咲かせたであろう。鶴見は気まぐれにも、ここでそんな考を運《めぐ》らして見た。アナトオル・フランスの幾巻かを成す幼年物は、晩年も晩年、老熟し切った文芸の畑の土壌に培《つちか》われた作品である。おおよその人が老年になって、往事を無邪気に顧みて、ただそれなりに皺《しわ》ばんだ口辺《こうへん》に微笑を湛《たた》え得るならば、それでも人生の静かな怡楽《いらく》が感ぜられもし、またその境地で満足してもいられよう。しかしそれは凡俗のことである。彼の作品は凡俗とは全く質を異にしていた。
 彼にあっては、その作品は幼時の溌剌《はつらつ》たる官能を老いてますます増強した炯眼《けいがん》に依憑《いひょう》させ、そこから推移発展させて、始めて収めえたる数十篇である。その一つ一つが珠玉を聯《つら》ねて編み成されている。多少作り事の嫌いがあると疑うものがあれば、それは短見であろう。試《ためし》にその珠玉の一つを取って透して見れば、人はその多彩に驚かされるにちがいない。あの複雑な巴里《パリ》が、適確な観察の光線の中で、首尾よく踊らされているのである。盛大があり、零落があり、恋愛があり、欺瞞があり、嬌笑がある。それらはいわば機智と冷刺との雰囲気の中で、動く塵埃《じんあい》でその塵埃が虹のような光彩を漲《みなぎ》らしているのである。幼年の作家は老熟した足どりで、いつもその中心を歩いている。これこそ正《まさ》しくアナトオル・フランスの作品である。

 鶴見の回想はそれに較べてあまりにも寂し過ぎる。第一に老年の畑が荒れていては、急にその発育を期待されない。多かるべきはずであった流星雨が降り足らなかったといっても好い。しかもそれが一刹那《いっせつな》閃《ひら》めくことがあっても次の瞬間にはすでに滅《き》えてしまっている。いわゆる前方を鎖《とざ》してわだかまるのは常闇《とこやみ》である。一刹那の光はむしろ永劫《えいごう》の暗黒を指示するが如くに見える。
 それでも鶴見にとっては、よしや回想の破片であろうとも、これを記念の緒《お》につないで置けば、まさかの時の念珠《ねんじゅ》の数え玉の用にも立とう。鶴見はそう思ってみて、それで好いのだと諦《あきら》めている。

 明治十六年、新築落成。これが一つの変動であった。旧家屋の構造様式が徳川末期の江戸風のもので、それがちょっとした旗本の隠居所とも思われるものであったとすれば、新築はどこか明治の役人向きの臭味《くさみ》に染ったものであった。広さはたいして違わぬが全体に殺風景なところが感ぜられる。趣味からいえば、
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