ものを肯定して不自然とも何とも思わなかった。海をはじめて見た幼い日の驚愕《きょうがく》の念は、それが引き起した錯覚に強調されて、いつまでも滅《き》えずに残って来ているのである。見ていると、その海の急傾斜の面を、煙筒から黒い煙を吐いている小蒸汽船がことことと機関の音をさせて転覆もせずに快調にすべってゆく。エドガア・アラン・ポオにあの名高いメエルスツルムの渦潮《うずしお》の恐ろしい記述がある。いわば海も船もあんな状態であるが、今ここに挙げる心像にはいささかの危険も伴わないのである。
 回想はもちろんこれ以上には展《ひろ》がらない。汽船は進行を続けているはずであるのに、始終同じところを運転しているように思われるのが、この不思議な画面に一種の落著きを与えている。場所は芝浦《しばうら》、海は東京湾である。

 その二つ。京橋の数奇屋河岸《すきやがし》である。或る家の二階の窓から母と一しょに火事を見ている。よくは見えぬが茶褐色の煙が向うにあがっている。「坊ちゃん。火事はお家《うち》の近所です」と誰やらが告げる。母は心配して、すぐ帰り仕度をして、車を急がせた。帰り著いて見ると、形勢は穏かでない。町筋は人と荷物で混雑を極《きわ》めている。
「こんなところへ小供を連れて遣《や》って来てはあぶない。」父であったか他の人であったかわからなかったが、叱るようにいう。
 すごすごとまた同じ車でもとの河岸ぷちの家に戻る。そうこうするうちに日が暮れて来る。二階の窓から向うを見る。昼間煙の簇々《そうそう》と立っていたその方角の空を、夜に入って、今度は火焔が赤々と染める。とうとう不安のうちに一夜をその家で過ごすことになった。これが恐らくは、母の膝に乗り腕に抱かれていても、なお人生には不安のあることを識《し》ったはじめであったろう。

 その三つ。突如として大きな音響が聞える。それと同時に、玉屋《たまや》鍵屋《かぎや》の声々がどっと起る。大河ぶちの桟敷《さじき》を一ぱいに埋めた見物客がその顔を空へ仰向《あおむ》ける。顔の輪廓が暫《しばら》くのあいだくっきりと照らし出される。天上の星屑の外《ほか》に、人工の星が閃光を放って散乱し爆発する。それを見るために集った人々である。こまかい花火の技巧を鑑賞するのでは素《もと》よりない。玉屋鍵屋の競争もその頃は既になくなっていたと考証家はいう。しかしそんなことはどうであろうとも、ただこの伝統的な河開きの気分を味えば好いのである。壮快という感じがその気分の一部分を占めていて、それが万人に共通する。都会における日常生活の屈托と不平とが一時に解消するように感ぜられるからであろう。
 鶴見は花火が殊に好きで、両国《りょうごく》の河開きには一頃毎年欠かさずに出掛けて行った。
 先年静岡に移ってからのことである。近郊の有度村《うどむら》の農家から、草薙社《くさなぎしゃ》に奉納の花火があるから一度は見ておいてもらいたい、桟敷も好い場所を取ってあるという。今の主人の父親がまだ隠居せぬ時のことであった。花火のようすはその前から若主人を通じて聞かされていた。打揚《うちあげ》も多数あるが、その夜の興味の中心は流星という仕掛ものにある。そしてその仕掛の特殊の構造も図示されたので、大概は承知していた。
 当日は若主人が迎えに来て、丁重な夕食を相客《あいきゃく》と一しょに馳走になった。膳の上には一皿の小魚の煮附が載っている。それがもろこ[#「もろこ」に傍点]であると説明しておいて、老主人はひどく土地の訛《なまり》のある言葉でなおもいい足した。自分は海の魚をあまり好かない。このもろこ[#「もろこ」に傍点]は近所の川で今朝|漁《と》ってきたものであるというのである。鶴見にはそれが何よりの珍味であった。
 老主人は草薙社への参道である一筋の夜みちを幼児の手を引くようにして、鶴見をみちびいて、親切にも案内された。人家もない畑の傍をたどって行くので足もとは暗い。その上に人が先を争って押合っていたからである。
 社前に著《つ》くと、提灯《ちょうちん》や露店などの明りがさして薄ぼんやりと明るくはなっているが雑沓《ざっとう》はいよいよ激しい。見ればその真中を村の青年たちがおおぜいかかって、太い縄のようなものを担《かつ》いで、それに繋がって静に歩いてゆく、その傍に立って、一人列を離れて音頭《おんど》を取っている老爺《ろうや》がある。がんじょうそうな小柄な男である。肌脱ぎの中腰になって、体を左右にゆすぶりながら、右の手に持った扇《おうぎ》を煽《あお》るようにして揮《ふ》って、しきりに何やら喚《わめ》いている。多少だるそうにも見える青年の行列に対照して、これはまた異常な熱狂ぶりである。太い縄のようなものといったのは、流星に火を点ずる時の導線となるもので、その中に火薬が詰めてあ
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