棚《ちがいだな》に飾ってあって、毎朝|布巾《ふきん》で、みずから埃《ほこり》を拭《ぬぐ》っていた。長年の間、そうやって、彼が手しおにかけていたものである。
 その文庫というのは、頃合《ころあい》の手匣《てばこ》で、深さも相応にあり、蓋《ふた》は中高《なかだか》になっていて柔かい円みがついている。蓋の表面には、少し低めにして、おもいきり大きい銀泥《ぎんでい》の月が出してある。古くなって手ずれたせいもあろうが、それはほんのりとした夢である。一むらの薄《すすき》が金線あざやかに、穂先を月のおもてに靡《なび》かせる。薄の穂は乱れたままに、蓋から胴の方へ食《は》みだして来る。外は蝋色ぬり、内は梨地《なしじ》である。
 匣《はこ》の中には、父親が若いころ、時の流行にかぶれて道楽にかいた書画に捺《お》した大小の雅印が入れてあった。銅の糸印《いといん》などもまじっている。蝋石の頭に獅子《しし》の鈕《つま》みを彫った印材のままのものがある。箱入の唐墨《からすみ》がある。雌黄《しおう》なんどの絵具類をまとめた袱紗包《ふくさづつみ》がある。そんなものが匣の大半を埋めていて、その上積《うわづみ》のようになって、やや大型の女持の懐中物《かいちゅうもの》がある。
 それは錦襴地《きんらんじ》の色の褪《さ》めた紙入であるが、開けてみると長方形の小さな鏡が嵌《は》め込《こ》んであるのが目につく。鏡は曇っている。仕切りがあって、袋になっているところに、紙包がしまってある。鶴見がなつかしがるのは、これがその正体である。明治八年三月十五日出生隼男と明記した包の中から干乾《ひから》びて黒褐色を呈したものがあらわれる。臍《へそ》の緒《お》である。
 臍の緒の外《ほか》に、も一つ、鶴見がいよいよなつかしがる記念品がはいっている。これには説明も何もない。それは当時はやった手札形《てふだがた》の硝子《ガラス》写真である。わかい一人の女性が椅子《いす》に腰をかけている。小ざっぱりした衣装には、これも当時の風俗のままに繻子《しゅす》の襟《えり》がかかっている。顔は何かなしに窶《やつ》れて見える。それで年の割にふけて見えるのではないかとさえ思われる。顔だちは先ず尋常である。珊瑚《さんご》の釵《かんざし》もつつましい。よく気を入れて見ると、鬢《びん》の毛がちとほつれたまま写っている。顔に窶れの見えるのはそのためであるかも知れない。
 写真はそれだけのものである。黙っている。それがつくづくと見ていると、沈黙を強《し》いられているようにしかおもわれない。黙ってはいるが、今にも唇がほころびそうでもある。またこうも思われる。堅く押し黙っていることが物を一層よく語っているではなかろうかと。写真はそんなふうに黙りきって、永久にこちらを向いている。
 鶴見はこの写真を、おりおり、こっそり引き出して、ながめ入ることがある。紙入に嵌《は》めてある鏡を拭って、拭い切れぬ水銀のさびを悲しみながら、その鏡に自分の顔をうつして、かの写真とこの面影とを見較べて、身じろぎもせずに何か考え込むことが、これまでも、しばしばあった。かれとこれとにどこか似ているところがありはせぬかと、そういうように思われるからである。
「お前も随分年を取ったね。」どこからか、こういう声が聞えてくる。「お忘れかも知れないが、わたしがお前の生みの親だよ。母親だよ。お常だよ。」
 鶴見の実母はお常といった。
 彼はその名を胸の奥の心《しん》の臓《ぞう》にきざみつけて、一生を守りどおして来たのである。忘れるどころではない。

 しかし母親の里方については、鶴見には一切知らされていない。この母親には鶴見が六歳の年に別れた。どうして離籍されたか、それも知らされていない。町内にあった平河小学に入校した年である。その後母親は学校の昼休みの時間を見はからって、逢いに来たことが一度ある。近所の店に連れて行かれて、好きなものを食べさせてもらった。その時の母親は藤ねずみのお高祖頭巾《こそずきん》に顔をつつんで、人目を避けていた。冬の頃かと思う。その姿を、鶴見はまざまざと、いつであろうとも、眼《ま》のあたりに思い浮べることが出来る。
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  幼年期



 鶴見の心眼の前を、例によって、幼年時の追憶の断片がちらちらと通り過ぎる。それが譬《たと》えていえば、小川に洗われて底に沈んでいる陶器の破片が染付《そめつけ》や錦手《にしきで》に彩《いろど》られた草木|花卉《かき》の模様、アラベスクの鎖の一環を反映屈折させて、水の流れと共にその影を揺《ゆ》らめかしているかのように見える。

 その一つ。青緑の海が逆立ちになっている。いきなり海がそう見えたというのは、その時の偽ることのできぬ心像であったのだろう。海が平面から立ちあがって急傾斜をなしているそのままの
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