子だけは衣を脱いで父皇子を拝して、その罰をみずから受けられようとしたのである。鶴見はその伝説を思い浮べている。これこそ代衆生苦の御念願である。

 鶴見はこれまで重荷にしていた痛苦がこの代衆生苦の御念願によって、冥々《めいめい》のうちにあっていつの間にか救われているのだろうと思う。それをそうと信ぜさせられた時、その市井の女はいよいよ些《いささか》の歪曲《わいきょく》をも容《ゆる》さぬ真相を示すのである。世間も、彼の母も、その母の地位も、すべて残る隈《くま》なく、彼の心眼に映って来る。そこには欺瞞も虚飾もない。彼はそれを臆する色もなく見詰めている。それでいて、もはや心に動揺をおぼえるというようなことはない。
 鶴見は、ここに、一つの安心を得たのである。
「何はともあれ、男の子が生れたのはめでたい。あなたには国に置いて来た女の子はある。男の子を設けたのは今度がはじめてなのだ。早速名を附けなければいけませんね。その内に戸籍の方へ届出もしなくてはなりません。どんな名が好いか。一つ案を立ててみたらどうです。」同宿の友の川西がそういった。
「子供は今生れたばかりだ。生い立つことが出来そうかどうかもまだ分らない。だが名を附けるとしたら、生れた町の名をそのまま貰ったらどんなものだろう。川西さん、それが分りやすくて好いね。第一に命名のために工夫を費やすなどという面倒を見ないですむ。先ずこうだね。」父親はそういって、畳の上に隼という字を大きく書いて見せた。
「なるほど。はやぶさと訓《よ》ませるのですか。それでは余り無造作《むぞうさ》に過ぎはしませんか。こうしたらどうでしょう。もう一字足して二字名にしては。隼男というように。」
 この川西の提案に父親はすぐ賛同した。川西はそうと極まったなら、そのうちに戸籍の方へ届出をしようが、その手続は引受けたといって、父親をよろこばした。この父親は他《ひと》の世話はよくしても、身辺の雑事で面倒を見るということが何よりも嫌いなのである。
 鶴見は父が死ぬまでに、区役所などに出頭するのを一度なりとも見たことがない。記憶のどこを探しても、そんなためしは皆無のようだといって、匙《さじ》を投げる。
 それが家族に対しては、制度と秩序とを、細《こま》やかにむしろ厳格に、守らせていなければ気が済まなかった父であった。しかるに社会生活においては、その新制度を極端に面倒ぐさがった。まだそういう観念と義務とに慣らされていなかったせいもあったろうが、父は生来片意地な性格の一面を持っていた。新時代の要請に容易に志を遷《うつ》すということをなしえなかったのである。
 その父が法律や規則などを煩《うる》さがっていながら、当時は司法省に勤めていた。矛盾のようであるが、父の係りは営繕課《えいぜんか》であった。建築の方で起用せられていたのである。築城の素養があるといって、それが自慢の一つであった。
 各藩の城廓の平面図に淡彩を施したのが、何十枚となく一綴《ひとつづ》りにしてあった。これが恐らく父の丹精によって集められたものであろう。反故《ほご》同様に取扱われていても、鶴見の家に長らく残っていて、そんな書類の中でも異色を放っていた。鶴見はそれを見るたびに、父の自慢もまんざらではなかったらしいと思うのである。

 鶴見はこうして、東京|麹町《こうじまち》隼町《はやぶさちょう》で生れたことになっている。府内は大小区に分けられていたかと思うが麹町隼町に変りはない。幕府でお鷹匠《たかじょう》を住まわせて置いた町だといわれている。鶴見の家のあった方は、いわゆる三軒家の通りで、濠端《ほりばた》の三宅侯の邸地からつづいて、その大部分は旗本の大名屋敷の跡であった。お鷹匠ばかりでなく、三宅侯の邸内にはあの画技に勁烈《けいれつ》な意気と共に軽妙な写生の一面を拓《ひら》き、現実に早くから目を醒ましていた蘭学者の渡辺崋山が住んでいたのである。その家はどのみちここから直ぐに手の届きそうな近所であったに違いない。鶴見の生れた場所はそんなような由来と歴史とを持っていた。
 鶴見にはこの町名に因《ちな》み、動物に因んだ隼男というのが好ましかった。彼がここで特にそういうのは、別に正根《まさね》という名を持たされていたからである。父親の同僚に誰か読書人がいて、隼の字面《じづら》の殺伐さを嫌って、こんな雅名を与えたものであろう。しかし小供の呼名としてはかえってこの名が呼びよかったので、父親は鶴見の幼年時に、よく正根といって、彼を呼び寄せた。鶴見は後にそれを別号のようにして使うことにしていた。

 鶴見の家には古い手文庫が一つあった。工芸品といっても月並の程度は出ていない。塗りにも蒔絵《まきえ》にも格別特色は見られなかった。それでも、昨年静岡の家が焼けるまでは、客間の床脇《とこわき》の違
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