ずかしい表情はしているものの、やはり社会大変革の手が当時の若者に分与した夢を抱いていたのだろう。否《いや》でも応《おう》でも抱かねばならなかった立身出世の夢である。
今は昔で、既に過去となりきって、どこにも支障があろうはずもなかろうからと、鶴見も打明け話をする気になっている。これまで誰にも語らなかったものだけに、多少気遅れもするが、大木氏の従者となって上京したということも、父から直接聞かされていたのではなかった。これは大木氏の継嗣《けいし》であった遠吉伯の手で、先代伯爵の東京遷都建白等について、その前後の経緯を纏めて編著された冊子があり、その書の公刊を見るに及んで、書中に引用された日記か何かによって、はじめてその事実を知ったぐらいな始末である。
前に三平といったが、佐賀藩の三平が、江藤新平、大木民平、古賀一平だというのは、ここに事新しく述べるまでもない。江藤氏は周知の如く悲劇に終り、古賀氏は不遇を託《かこ》って振わなかった中にあって、大木氏は伯爵家を起すまでに時めいた。寛仁大度の天資が、変遷ただならぬ世に処して、その徳を潤おした結果かとも思われる。
そんな因縁《いんねん》から、この家の主人は、あとあとまでも伯爵家の恩顧を蒙りもし、また伯爵家のために、生涯骨身を惜しまずに誠意を尽した。
この主人がこうして男の児を設けた現在の家に落《お》ち著《つ》いてから、まだ二年とは立っていないようすである。結婚したというものの、それもこの家と地所とを買入れて移って来てからのことであるかどうかさえ、よくは分らない。以前は青山にいた。多分部屋借りをしていたのだろう。その頃はやった文人趣味にかぶれて、画ごころのあったところから、梅や竹なんぞをひねくって、作れもしない絶句を題して、青山居士と署した反故《ほご》が、張《は》り貫《ぬ》きの箱の中に久しくしまってあった。芝の増上寺が焼けたのは、おれが青山にいた時だといっていた。鶴見はその話をかすかにおぼえている。
主人が結婚したのは青山にいた時か、現在の家に入ってからか、はっきりしないといったが、それが正式の結婚であったかどうかも疑えば疑われる。戸籍の問題などにもその頃は一般に不注意であった。とにもかくにも、この家の主人が既婚者の一人であって、現在妻を郷里に残して置き、しかもその妻に二人の女児を生ませていた。知り得る限りにおいて、これだけはその通りであったと認むるより外はない。
しからばおれの母は何であったろう。鶴見はこれまでも、幾百たびとなく、その事を思ってみた。彼の脳裡には、絶えず、往来する影がある。その影は解決を得ない不安をにれ噛《か》んで、執《しゅう》ねくも離れようとしない。それが殆ど彼の生涯にわたっているのである。
考えれば考えるほど胸が痛む。鶴見は堪えられなくなった。はっきりとはおぼえていないがもはやそれから十年は立ったであろう。その彼にも、その苦痛を、冷静に、淡々たる一句に約《つづ》めて表現し得る或る日が到来した。少しばかりの余裕が心の中に齎《もたら》した賜物《たまもの》といっても好い。鶴見にはその日にはじめて発心《ほっしん》が出来たのである。
「おれの母は凡庸な世の常の女であった。それに違いはあるまい。しかしそうであったとしたところで、その母をなんといって、おれにも分り他にも分るようにさせたら好いであろうか。――おお、それ市井の女[#「市井の女」に傍点]。」
市井の女。ただ一句である。鶴見はこの一句のために、その一生を賭けていたといっても好い。人知れぬ痛苦は彼の心身を腐蝕していた。そして歪められたのは彼の性情であった。
この市井の女という言葉は、普通ならば、かかる場合に、呪いをこめた文句として吐かれたことであろう。その方がまたふさわしくもある。しかしこれは鶴見が苦しみぬいたあげく、後に到達した冷徹の心境である。鶴見は正直にそう思ったのである。「この一句には信念に通ずるものがある。呪いの言葉であって好かろうはずがない。」
単にこの句を舌頭に転ずるには、彼に取って、本来余りにも複雑な意義を含む言葉である。鶴見はそこから俳諧の芸術的精神を見極めようなどとしたのでは毛頭ない。鶴見はこの言葉を心の奥の奥、深淵の中で、うち返しうち返してみた後に、すべての暗い雑念を遠離して、この単純なる告白の言葉を得たものと信じている。複雑に徹した単純である。彼は今それをよろこんでいる。わずかに一句の懺悔《ざんげ》が彼を身軽にする。
聖徳太子四歳の御時《おんとき》のことと伝えられている。みずからその笞《むち》をうけんと、父皇子の前に進んで出られた。兄弟の諸王子たちが互にいさかって叫んでいたのを、父皇子がたしなめようとして笞を取っていられたのを、はやくもそれと知って、諸王子たちは逃げかくれている。太
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