太子《じょうぐうたいし》御生誕後幾年になる。」
これには鶴見も途方にくれている。傍《かたわら》に一冊の年表でもあれば頼りになるのであるが、それもない。やっとのことで、大正十年が一千三百年の遠諱《おんき》に当るということに気がついた。『日本書紀』は文庫本でこの頃手に入れたが、その本文から年代の纏《まとま》った知識を得ることは容易でない。年表がやはり必要になってくる。幸に鴎外の集なら借覧を許されていた。その集の中に、ふだんは余り注意しない文章であるが、『聖徳太子|頌徳文《しょうとくぶん》』というのがある。「皇国啓発の先覚、技芸外護の恩師」と冒頭に書き出してある、あの文章のことである。鴎外はこの祭文《さいもん》を太子一千三百年遠諱記念の式場において、美術院長の資格で読み上げたことになっている。大正十年四月十五日である。これは確な資料に違いない。鶴見はそれを手がかりとして、更に平氏《へいし》撰と称されている『伝暦《でんりゃく》』を披《ひら》いて見た。静岡からこの地に舞い戻って来た当時古本屋をあさって『五教章』の講義と共に、最初に購ったのがこの書である。彼の頭にいつも太子がこびりついていた。それでこういった書物は計画的に出ないでも、自然に懐《ふところ》にはいってくる。それを彼は格別怪しみもしないでいる。
鶴見はその『伝暦』を見て、太子|薨去《こうきょ》の時の宝算《ほうさん》が四十九歳、または五十歳でおわしたことを知った。「そうして見れば、明治八年は薨去後一千二百五十年。それに宝算を加えて、まあ、ざっと一千三百余年になる。計数のことは不得手だが、そんなところだろうな。妙なことをいうようだが、おれの回想のなかで産声をあげた小さな魂は、幸か不幸か、そんな年廻りを身につけて生れて来たのだ。これが歴史の業因《ごういん》というものだ。」
この時、突如として例の景彦《かげひこ》が現れる。景彦は目を瞋《いか》らしてはいるが、言葉は急に口を衝《つ》いて出てこない。しわがれたような、慎み深いささやきが聞える。それはただの一言である。
「たわけめ。」
鶴見はこれを聞いてぞっとした。しばらくしてから、こういった。
「生れて来た子供は、よかれあしかれ、そんな運命の枷《かせ》の中で苦しまねばならないのだ。その子供は歴史を作るどころか、定められた歴史の網に縛《いまし》められた小鳥に過ぎない。翼《つばさ》はあっても、自由に飛び立つことも出来ない。社会は彼を手もなく押《お》し潰《つぶ》してしまう。しかし明治維新後八年、上宮太子降誕一千三百余年は、彼自身が彼を記念するには好い年代である。それがただ一つの記念である。誰が何といおうとも、これだけは彼の体から剥《は》ぎ取《と》れない。彼のために彼を笑ってやれ。その笑が痛哭《つうこく》であろうとも、自嘲であろうとも、解除であろうとも、それはどうでも好い。ただ大《おおい》に笑ってやれ。そう思っているのだ。たとえたわけと罵《ののし》られても、彼は満足しているのだ。」
こういってしまうと、鶴見も少しは胸が晴々とした。景彦に答えるのではない。まして弁解どころではない。鶴見は、この場合、言いたいことを言っただけである。
景彦の姿は遽《にわ》かにおぼろげになって、遠くかすんで行った。幽微な雰囲気が、そのあたりに棚引《たなび》いている。ほのかな陽炎《かげろう》が少しずつ凝集する。物がまた象《かたど》られて揺《ゆら》めくように感ぜられる。鶴見は、そこに、はからずも、畏《か》しこげな御影《ぎょえい》を仰ぎ見たのである。太秦《うずまさ》広隆寺の桂宮院《けいきゅういん》に納めてある太子の御尊像そっくりであった。左右に童子を随えて、笏《しゃく》を捧げて立たせたまう、あの聡明と威厳を備えた御影である。
鶴見はうっとりとして目を瞑《つぶ》った。目を瞑りながらもなお御影を仰いでいたのである。
和国の教主聖徳王の和讃がどこからともなく流れて来ては去る。その讃頌《さんしょう》の声がいつしかしずまる。もはや聞えなくなったかと思うと共に、今まで仰ぎ見ていた御影もまた滅《き》えて行った。
そして、この娑婆《しゃば》に生れて来たのは、男の児《こ》であった。
その子の父親はわざと産室に顔を出さずにいる。同宿をさせていた友達の一人と二階に上って、この日はひっそりと話し合っていた。友達というのは同じ郷里から出てきた後輩で、同じ役所に勤めているのである。そこへ下から、男の児が無事に生れたという知らせがあった。
主人の父親は、無愛想に、そうかといったきり、にこりともしない。友達の方がかえって、「それはめでたい」といって喜んでいる。
この家の主人は明治の初年に、藩中で三平《さんぺい》の随一と呼ばれたほどの人物の従者になって、あこがれの東京に出てきた。む
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