とで、とある料亭で向い合って、おこったり、仲直りした昔のことを思い浮べる。冗談のつもりなのが、はからずも真面目な声になる。女は悔《くや》しいと思う。女と一しょに演奏をしつつ世界を打って廻る相手の男のために、実は鴎外である主人公がシャンパニエの杯《さかずき》を上げる。それに応《こた》えて杯を上げる女の手は顫《ふる》えている。
それから女を載せた車が銀座通を横切って芝の方へ行く。一|輛《りょう》の寂しい車である。どこにある銀座通やら、どこへ行く車やら。
その三は『花子』である。巨匠オオギュスト・ロダンの仕事場になっているオテル・ビロンでロダンは晴やかな顔つきをして、許多《あまた》の半成品を見渡している。恐るべき形の記憶力と意思の集中力とを有する異常なこの芸術家は、種々の植物が日光の下で華さくように、同時に幾つかの仕事を始めることが出来る。
戸を叩く音がする。花子が連れられて来たのである。「おはいり」という声は底に力が籠《こも》っていて老人らしくない。
通訳に附いて来た医学士は別室でボオドレエルの『おもちゃの形而上学』を読む。ロダンはいう。「人の体も形が形として面白いのではない。霊の鏡です。形の上に透《す》き徹《とお》って見える内の焔《ほのお》が面白いのです。」
この三篇はいつも識者からはそのどれかが名文だといわれている。鶴見ははじめからこの三つを名文だと思って見ていたのである。芥川竜之介も、鴎外の作中では『普請中』などをよく読めと、人に薦《すす》めている。
傑作は名文を心としない。内容を重んずればそうもいわれる。しかし名文を伴わぬ傑作が果してあるだろうか。ここでは内容と、その表現形式の一致が望まれている。鴎外にはその一致がある。
『サフラン』がまた名文である。最も簡単であるだけにまた最も純粋でもある。
鴎外の筆に上ったサフランにも霊はあろう。その霊は鴎外の残るくまなき記述によって、定めし目を醒《さま》して、西欧文物の東漸《とうぜん》の昔をしのんでいることであろう。鶴見はそこが波羅葦僧《ハライソ》の浄土であらんことを、切に願っている。
重ねていう、『サフラン』は名文である。
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出生
人の子が或る日或る所に生れる。
そういうことを鶴見はぼんやりした気分で考えていた。それはそれなりのことで、殊更に思を費やすにも当らぬように見える。その生れて来た子が凡俗であればあるほど、つまらぬことである。しかし思い返してみれば、その子が生れて来たばかりに、何かは知らず、人間社会の片隅で、抜きさしのならぬ隠れた歴史を営みはじめる。どんな凡庸なものにもその人相応な歴史はあるものである。
鶴見は今そんな風に思ってみて、凡庸人の歴史を回想の中に探ろうとしている。
雲ともつかず霧ともつかぬものが一面にはびこって、回想の空間を灰色に塗りつぶしている。それが少しずつ動き出すらしい。鶴見は先ずそのけはいを感じたのである。そして目を据えて雲霧の動きを見極めようとしている。
雲霧は徐《おもむ》ろに流れて来ては、ふっと滅《き》えてゆく。おなじ動作が幾たびか繰り返される。雲霧は或る所まで来ると、必ずその所で滅えるのである。滅えて滅えて、そのあとがほんのりと明るくなる。
これは瑞兆《ずいちょう》だ。小さな魂が新しい肉体に宿って現われて来るには、またとない潮時である。生れて来る子のために祝ってやれば、たったこれだけのことでも、瑞兆といっても好い。その外《ほか》に何一つ変ったことも起ってはいないからである。
もやもやとした雲霧の渦流する中に、一点でも明るいところが示されたこと、そのことを空漠たる回想を辿《たど》って読み取っていた時、果して、その時その家で、平凡な子供が一人生れ落ちた。鶴見は今それを思い出して、こそばゆいような気持になる。どこかに暗愚の痣《あざ》でもくっつけてはいなかったかと、無意識に、首筋のあたりを撫《な》で廻《まわ》している。生れて来たのは、実は、鶴見自身なのである。
出生した子供はひよわらしい。どうせ娑婆塞《しゃばふさ》ぎであろうが、それでも産声《うぶごえ》だけは確に挙げた。持前の高笑いは早くもその時に萌《きざ》していたものと見える。明治八年三月十五日の事である。ただし生れた時間は分らない。
鶴見はそれを憾《うら》みとして、繰り展《ひろ》げた回想の頁の上に幽《かす》かな光のさしている一点を、指さきでしっかり押えた。感応がある。ぴったり朝の六時。それでなければならない。彼はそうと、独り極めに極めてしまって、
「おお、これがおれの道楽かな。その子の出生は午前|正《しょう》六時、好い時刻だ。それに三月十五日、明治八年か。それで事はすっかり明白になった。いや、維新変革の後八年。ちょっと待てよ。それでは上宮
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