うとして、討手のものが払暁に表門の前に来る。その条下に板塀の上に夾竹桃が二、三尺伸びているように書いてある。徳川時代の初期、寛永年代のことである。夾竹桃がその時分既に渡来していたものか、そこに疑が生ずる。
しかしかかる疑念をうち消すために、こうもいえる。南蛮船が来航し、次で和蘭陀《オランダ》からも遣《や》って来る。支那《シナ》との交通はもとよりのことである。香木の伽羅《きゃら》を手に入れることで、熊本の細川家と仙台の伊達《だて》家との家臣が争っている。この事は鴎外の『興津弥五右衛門《おきつやごえもん》の遺書』に書いてある。そんな時代の趨勢から見れば、夾竹桃ぐらいが伝っているのに、別段の不思議はないと。
それもそうであるが、果してそうであれば、それ以後の徳川期の文献に、何か記載がなければならない。殊に新奇を好んで飛耳張目《ひじちょうもく》する俳諧者流の手にかからぬはずはなかろう。阿蘭陀西鶴に夾竹桃を読み込んだ一句でもあるか、どうだろう。そんな方面にも鶴見の見聞の領域は狭い。文献の有無を検討するにしても鶴見はまるで不案内である。こんな疑惑は畢竟《ひっきょう》無知のさせる烏滸《おこ》の沙汰である。そうであって欲しいと思って見ても、不審は解けない。
ただ、それにしても寛永ではあまりに早過ぎる。気にかかるのはそれだけのことである。鶴見の経験から推量しての言草《いいぐさ》であるが、それを手離しでひっ込めようとする気にはなれない。
鴎外は名を知って物を知らぬということを、『サフラン』の書き出しに述べている。鶴見が夾竹桃の名を知ったのは明治二十五年の夏である。それまではどうであったかというに、東京で生れた彼は、実際のところ、その名をすら知らないでいたのである。名を知ったのは実物を見たのと同時であった。
この経験からいえば、夾竹桃の伝来は明治十年代でなければならぬように思われる。一個人の偶然の経験というものは確証には供し難い。譲歩はしなければなるまい。それはしようが、いくら譲歩して見ても、馬鈴薯の例などを参照して、先ず徳川時代の末か維新当座の頃ということになる。
鴎外が『阿部一族』で夾竹桃を使ったのには、何か拠りどころがあったであろう。『「プルムウラ」の由来』を見ると、脚本を書くとき、その現地の時候や花卉《かき》のことまで当って見ねばならぬといってある。鴎外の文の精確であることは、いつもそれだけの用意を欠かさなかったところにある。
鶴見は今更のように、いらざる疑念を起したものとして、ひたすらに困惑するのみである。
「それにしても無知は致し方がないなあ。誰かの手でおれの無知の蒙を啓《ひら》いてもらいたい。」そういって歎息しているが、疑惑は咀《のろ》われてもなお執拗につきまとって離れない。
北平《ペイピン》の胡同《フートン》の石塀から表の街路に枝を出して、ここにもかしこにもといったように、夾竹桃が派手に咲いている。鮮やかな装いをした姑娘《クーニャン》が胸を張って通り過ぎる。
夾竹桃はどうしても近代の雰囲気にふさわしい。
鴎外には『サフラン』という名文がある。
サフランは石蒜《せきさん》とその寂しい運命を分け合っている。鶴見がまだ子供の時分、国から叔母が来ていたが、血の道の薬だといって濃い赤褐色の煎《せん》じ汁《じる》を飲んでいた。鶴見にはそれだけの思い出しかない。
名文といったが、鴎外の名文にもいろいろある。先ず『追儺《ついな》』である。羅馬《ローマ》の古俗がどうのこうのといってあるが、実は文界の魔障を追い払う意味を裏面に含めたものである。劈頭《へきとう》に自然主義が小説をかえって一定の型に嵌《は》め込む迷妄を破してあるのは表向きの議論であるに過ぎない。それをまた鴎外の文壇復帰の弁だとのみ思うのも皮相の見であろう。新喜楽の老婆の体のこなし方の好さから、多年|鍛《きた》われて来たその意気の強さまでが、さながらに、鴎外の魂が乗り移ってでもいるように、あの短い描写の中でまざまざと見える。赤いちゃんちゃんこを着たお上《かみ》の鬼やらいを、鴎外はただ一人で見ている。演者と見者とがそこに合一している。
そのまた一つは『普請中《ふしんちゅう》』である。鴎外としては最も感慨の深いものであろう。『舞姫』時代の夢がここによみ返って来る。その夢から見ると現在は何と変った姿であろう。また何という気分の分散であろう。身も心も境もおしなべて変っている。普請中の精養軒《せいようけん》で、主人公が外国からやって来た昔馴染《むかしなじみ》の女を待ち受けている。女が来る。主人公はここは日本だと云い云い女を食堂に案内する。給仕が附きっきりである。女がメロンが旨いのなんのという。そして、「あなたは妬《や》いては下さらないのですね」という。中央劇場のはねたあ
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