その玩具は手細工で頗《すこぶ》る込み入ったものである。よく大夫《たゆう》の手元を見るが好い。拍手の起らぬのを、鶴見はむしろ不審がっている。真の大夫が舞台に出ているのではないか。それを我人《われひと》ともに、大夫は奥の楽屋に隠れてでもいるかのように思っていた。その楽屋は奥の奥で人を寄せつけない。鴎外は遂にその本領を示したことがないといって攻撃していたものである。
 鴎外の読者は、右の座に就くものと左の座に就くものとがはっきりと分けられている。誰がそう分けたのでもないのに、そうなっている。右の座からは讃歎の辞が送られる。左の座からは罵詈《ばり》の声が起る。いずれも極端で最大級の形容詞が使われる。誇張であって、ぎごちない。この読者というものの中には批評家が勿論|交《まじ》っている。左の座にはその音頭取《おんどとり》があるようにも見えた。大抵の読者はそのいずれかに属しながら押黙っていたのである。鴎外はむしろそれを好いことにして、いよいよ韜晦《とうかい》の術をめぐらすのである。少し言い過ぎであろうが、人々は手もなく鴎外に操られて、そうとも気がつかずにいたのである。
 ここらで鴎外に対する在来の見方は綺麗《きれい》に方《かた》をつけて、これを変改するより外《ほか》はない。それには唯一の方法しか剰《あま》されていない。即ち思い切って、鴎外をしたたかな魂を持ったあそび[#「あそび」に傍点]の発明家として推すことである。これは一流の大家でなくては出来ない仕事である。そこに鴎外の芸術家としての真骨頂が何の障《さわ》りもなく露呈することになる。あそび[#「あそび」に傍点]はもはや余技ではない。気を負うた鴎外の全本領として活《い》かされて来るからである。かの具象的観照の妙処の如きも、将《はた》また私を隠した叙述のさばかりの冷徹さも、詰るところ、科学的のポオズを取った鴎外の擬態でなくて何であろう。世間がみんなそういう気になって鴎外を推奨していたならば、鴎外はもっともっと秘法の箱を開けて、その内心の影像を繰りひろげて見せてくれたであろうに、惜しいことをしたものである。
 鶴見はそう思いながら、何事も徹底して思量すべき時機が来ていることを知って、いささか慰むるところがないでもなかった。

 空想を抑制していたことも、確に鴎外の特徴をなしている。鴎外は空想の放肆《ほうし》にわたるのを太《はなはだ》
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