とうかい》しているのではなかろうか。それが心寂しく飽足《あきた》らなかったのである。
鴎外の意図するところのものが追々に推測されて来る。
わが鴎外はことさらにそういう境地を仮に選んであそんでいるのではなかろうか。そういうようにも思われて来る。時としてはその境地が、鶴見には八幡《やわた》の藪《やぶ》のようにも見える。鴎外はそこで円錐《えんすい》の立方積を出す公式をひとりで盛んに講釈している。結局人を煙に巻いているのではなかろうか。それも好い。
鶴見はここであの才気の勝った風貌を思い浮べる。鴎外には人を人とも思わぬしたたかな魂があって、我を我とも思わぬのではなかろうか。ゲエテを引いて日々の勤めなんぞと考えて見るが内心は決して満たされていない。そして口にもし行いもするところのものは、いつも中庸であり、穏健である。ただその間に辛辣《しんらつ》な風気が交《まじ》ることがある。潔癖があったからである。それで思い切ったこともしかねない。現に人の好んでせぬことを独力で敢てした。
鴎外の為人《ひととなり》の見どころはその辺にあるのではなかろうか。人はこれを聞いて言うにも及ばぬ平凡事となすであろう。鶴見は自分の言の平凡を嫌わない。彼は事実は事実として、そこから鴎外に対する見方をこの頃変えて来たのである。人はそれを聞いたなら不遜《ふそん》だといって非難するであろう。しかしそれをも意に介せない。鶴見はこれによって鴎外の声価を少しも損ねようとは思っていないのである。
鴎外にも弱点はあった。鴎外は自己を知り過ぎるくらい知っていた。その弱点というのは、自負の心である。消極的にいえば『舞姫』以来のニルアドミラリである。それを自己の性癖として絶えず抑えつけている。鴎外が寛容を示そうとしたのはそのためである。それにもかかわらず自己制圧の手の下から逸《そ》れて僅に表面にあらわれて来たのが、例の難渋なあそび[#「あそび」に傍点]である。現実離れのした遊刃《ゆうじん》余りありというようなわけではあるまい。所詮は鴎外の諦めても諦らめられぬ鬱悶を消する玩具であろう。不平もあれば皮肉もある。嫌味《いやみ》も交る。しかしそこには野趣がある。鴎外はここではじめて胸襟《きょうきん》を開いて見せる。いわば羽目を外《はず》すのである。鶴見は今ではその事を面白いと思っている。
あれは鴎外の玩具の操作である。しかも
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