の色想観である。反逆の魂、執著の業因が創造に依《よ》って浄化させられるまでの、その過程における心理の探討に外ならぬものである。たとえば盲目の大虫が思量の暗黒の底に爬行《はこう》する姿を見る。鶴見はここにも歓喜の予感を貪《むさぼ》り求める。そしてみずからを大虫に擬《ぎ》して、原始的の泥沼のなかを這い廻ることすら厭《いと》わない。そしてまた一回の苦行が終り、その贖いの歓喜を恣《ほしいまま》になし得るとき、徐《しず》かに「南無」と唱えるのである。
過去に悔恨を懐く鶴見には、きょうの朝目《あさめ》の好さもさほどには思われなかった。一度ならず二度までも溜息をついた。それにしても、輪廻に伴う創造観が観相の主題を占め、広汎な苦行世界を彼に見せてからは、彼がそれまで気にしていた小さな過去の悔恨の如きは物の数でもなくなった。彼は救われたような気持になっていて、我知らず、内心の秘密を明してしまった。
そうして見れば、朝目は彼のために決して悪くはなかったのである。
朝日はいよいよ鮮明を増し、露にうるおった木々の青葉は静かに目をさまして一斉にかがやいている。朝日はかくて濡縁《ぬれえん》の端に及び、忽《たちま》ちのうちにその全面に射し込んで来て、幾年の風雨に曝《さ》らされて朽ちかかった縁板も、やがて人膚《ひとはだ》ぐらいの温《ぬく》みを帯びるようになる。
その温みを慕って来たものか、綴《と》じ合《あわ》せた縁板の隙間《すきま》からちろちろと這いあがって来るものがある。見れば小さな蜥蜴《とかげ》である。背の色が美しい。碧緑《へきりょく》とも紫紺《しこん》とも思われて、油を塗ったような光沢がある。胴体はいかにも華奢《きゃしゃ》であるが、手足はよく均衡が取れていて、行動が敏捷《びんしょう》である。それがあたかも宝石を入れた精巧な懐中時計の機械のようである。
娘の静代はめざとくこれを見つけて、「ちっぽけな蜥蜴があんなとこを這っています」といった。軽蔑の念と共に憎悪の念もまじっているような言葉つきである。
「もう蜥蜴が出るような時節になりましたね。」曾乃刀自はこういったきり無心である。
「あんなちっぽけな虫。それでも気味のわるいことね。追っ払ってしまいましょう。」
静代は手を挙げて蜥蜴を追い払うまねをしている。
「いや、待て。あの蜥蜴のどこが憎くらしいのだ。あれはね。言って聞かすが、お父
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