ってみたいと思う言葉が醸成され、涌《わ》き出《だ》して来るのを内心に感じている。
 鶴見はここで、創造ということについていってみたいのである。輪廻と創造との関係と言い換えても好い。
 輪廻が贖《あがな》いであり、そこに歓喜が伴うということは、鶴見が前にいっていた。彼はそれを基礎として更に考えを進めてみるのである。
 輪廻は現実の事象に執著するということから始まる。鳥獣虫魚草木に至るまでの万物は、感覚を媒介として、個想を養う輪廻世界の苦行の姿として知覚される。そしてその苦行に宿る歓喜を求めて、一度求め得たるものを放とうともせぬ貪欲心が生ずる。それが執著である。鳥獣|乃至《ないし》草木においても、知覚の厚薄はあろうが何らかのかたちで人間と同じく、その苦行と歓喜とを感じているのではなかろうか。鶴見はそこまで推定して見ねば気が済まぬように思う。少くとも万有が錯綜《さくそう》した知覚関係に置かれているものと信じさせられている。感応が行われねば世界は死滅である。
 刹那《せつな》は永劫《えいごう》に廻転する。なぜかなれば普遍の生命は流動しているからである。もろもろの感覚によって起される執著が因《もと》となり種子《たね》となって幻想の渾沌《こんとん》を構成する。渾沌は渦動する。この渾沌たる幻想は漸《ようや》くにして流動する生命に孕《はら》まれる白象の夢となるのである。新たなる言葉が陣痛する。托胎《たくたい》の月満ちて、唯我独尊《ゆいがどくそん》を叫ぶ産声《うぶごえ》があがる。これこそ人文世界の薄伽梵《ばかぼん》、仏世尊《ぶつせそん》の誕生である。かくして耀《かがや》かしい学芸の創造と興隆が現世に約束される。
 観るが好い。誕生仏は裸身であってまた金色の相を具え、現実であってしかも理想の俤を浮べる。

 創造のことを思量しつつも鶴見はいつしか夢に夢を見ていたのである。夢の醒《さ》め際《ぎわ》に少し身を顫《ふる》わしていたが、暫くしてから気が附いたらしく、口中で低声に何か唱《とな》え言《ごと》をしているように見えた。それは「南無」というように聞える。鶴見は両三遍《りょうさんべん》唱え言を繰り返してから、遽《にわ》かに勢づいていった。「天工を奪うとはこの事だ」と。
 鶴見の輪廻観は要するにこの流転世界に対応する心像を因子として個想の発揚が欲求される創造観である。刹那に永遠を照見する幻想
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