新しき聲
蒲原有明

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)盛《さか》へ

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(例)幾多|相踵《あひつ》いで

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(例)※[#「執/れんが」、399−上−7]
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       (一)

 同時代に生れ出た詩集の、一は盛《さか》へ他は忘れ去られた。「若菜集」と「抒情詩」。「若菜集」は忽ちにして版を重ねたが、「抒情詩」は花の如く開いて音もなく落ちて了つた。

 島崎氏の「若菜集」がいかに若々しい姿のうちに烈しい情※[#「執/れんが」、399−上−7]をこめてゐたかは、今更ここに言ふを須《もち》ゐないことではあるが、その撓《たゆ》み易き句法、素直に自由な格調、從つてこれは今迄に類《たぐひ》のなかつた新聲である。予がはじめて「若菜集」を手にしたをりの感情は言ふに言はれぬ歡喜であつた。予が胸は胡蝶の翅《つばさ》の如く顫《ふる》へた。島崎氏の用ゐられた言葉は决して撰《え》り好みをした珍奇の言葉ではなかつたので、一々に拾ひ上げて見れば寧《むし》ろその尋常なるに驚かるゝばかりであるが、それが却《かへつ》て未だ曾て耳にした例《ためし》のない美しい樂音を響かせて、その音調の文《あや》は春の野に立つ遊絲《かげろふ》の微かな影を心の空に搖《ゆる》がすのである。眞《まこと》の歌である。島崎氏の歌は森の中にこもる鳥の歌、その玲瓏の囀《さへづり》は瑞樹《みづき》の木末《こずゑ》まで流れわたつて、若葉の一つ一つを緑の聲に活《い》かさずば止まなかつた。かくして「若菜集」の世にもてはやされたのは當然の理《ことわり》である。
 人々はこのめづらしき新聲に魅せらるゝ如くであつた。予も亦魅せられて遂に悔ゆるの期なきをよろこぶのである。新しきは古びるといふ。※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]《はか》ない世の言い慣はしだ。※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]ない世の信念だ。古びるが故に新しきは未だ眞正に新しきものではない。世に珍奇なるものは歳月の經過と共にその刺撃性を失ふこともあらうが、眞正に新しきものはとこしへに新しきもののいつも變らぬ象徴であらねばならぬ。島崎氏の出《いだ》したる新聲は時代の酸化作用に變質を來さぬものであることは疑ひを容れないのである。
 然るに今日島崎氏の詩を斥《しりぞ》けて既に業《すで》に陳腐の域に墜ちたものだといふ説がある、果してその言の如くであらうか。「若菜集」を讀む前にませて歪《ゆが》んだ或種の思想を擁《いだ》いて居《を》ればこそ他に無垢なる光明世界のあるのを見ないのであらう。輝ける稚《わか》き世――それが「若菜集」の世界である、※[#「女+櫂のつくり」、第3水準1−15−93]歌《かゞひ》の塲《には》である。こゝには神も人に交《まじは》つて人間の姿人間の情を裝《よそほ》つた。されば流れ出づる感情は往く處に往き、止《とゞま》る處に止りて毫も狐疑《こぎ》踟※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]《ちゝう》の態を學ばなかつた。自《みづ》から恣《ほしひまゝ》にする歡樂悲愁のおもひは一字に溢れ一句に漲る、かくて單純な言葉の秘密、簡淨な格調の生命は殘る隈なくこゝに發現したのである。島崎氏はこの外に何者をも要《もと》めなかつた。宇宙人生のかくれたる意義を掻き起すと稱《とな》へながら、油乾ける火盞《ほざら》に暗黒の燈火《ともしび》を點ずるが如き痴態を執るものではなかつた。
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まだ彈《ひ》きも見ぬ少女子《をとめご》の
胸にひそめる琴のねを、
        知るや君。
[#ここで字下げ終わり]
「若菜集」に於ける島崎氏の態度は正にこれである。まだ彈きも見ぬ緒琴《をごと》は深淵の底に沈んでゐる。折々は波の手にうごかされて幽《かす》かな響の傳り來ることがある。詩人の耳は敏《さと》くもその響を聽きとめて新たなる歌に新たなる聲を添へる――それのみである。「若菜集」にはまた眞白く柔らかなる手に黄《きば》んだ柑子《かうじ》の皮を半《なかば》割《さ》かせて、それを銀の盞《さら》に盛つてすゝめらるやうな思ひのする匂はしく清《すゞ》しい歌もある。……
「若菜集」一度《ひとたび》出でて島崎氏の歌を模倣するもの幾多|相踵《あひつ》いであらはれたが、徒《いたづ》らに島崎氏の後塵を拜するに過ぎなかつたことは、「若菜集」の價値を事實に高めたものとも言へやう。到り易げに見えて達するに難《かた》きは「若菜集」の境地である。「若菜集」はいつまでも古びぬ姿、新しき聲そのまゝである。島崎氏自身
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