すら再びこの境地に達することが出來なかつたのである。更に深く幽《かす》かに濃やかなる感情と、更に鮮やかなる印象と、痛切なる苦悶と悦樂とを、簡淨なる詩句に調攝《てうせつ》する大才(是れ一個の※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルレエヌ)のあらはるゝ日あらば、その先蹤《せんしよう》をなした「若菜集」はまた一層の價値を高めることであらう。「若菜集」を善く讀むものはかゝる豫定と想望とを禁じ得ないのである。
 同情ある評家は當時「若菜集」の中《うち》なるある歌にPRBの風趣ありと讚嘆した。PRBはさることながら予はこゝに佛蘭西新派の面影をほのかに偲ぶものである。
 島崎氏はその後《のち》淺間山の麓なる佗しき町に居を移された。性情と境遇の變化は「寂寥」の一篇によく現はれてはゐるが、この篇を賦するに當て島崎氏は「若菜集」の諸篇と全然|趣《おもむき》を異にする詩の三眛境《さんまいきやう》を認められたやうである。知的の絃《いと》が主なる樂旨を奏するやうになつたのである。こゝに胸中無限の寂寞を藏して、識ますます明らかなる時、信の高原をわたる風の音は梵音聲《ぼんおんじやう》の響をたてる、詩人は青蓮の如き眼《まなこ》をあげて、跡もなき風の行方を見送つたのであらう。これを彼《か》の「若菜集」の『眼にながむれば彩雲《あやぐも》のまきてはひらく繪卷物』に比べ來れば、その著るしき趣の相違に驚かれる。彼にあつて自由に華やかに澄徹した調を送つた歌の鳥もすでに聲を收めて、いつしかその姿をかくした。此《こゝ》には孤獨の思ひを擁《いだ》く島崎氏あるのみである。詩人は努力精進して別に深邃《しんすゐ》なる詩の法門をくゞり、三眛の境地に脚を停《とゞ》めむとして遽《には》かに踵《きびす》をかへされた。吾人は「寂寥」篇一曲を擁《いだ》いて詩人の遺教に泣くものである。南木曾《なぎそ》の山の猿《ましら》の聲が詩人の魂を動かしそめたとすれば、淺間大麓の灰砂《くわいしや》の谿は詩人の聲を埋《うづ》めたとも言へやう。――島崎氏はこれより散文(小説)に向はれたのである。

       (二)

 島崎氏を言へば、島崎氏の前に北村透谷のあつたことを忘れてはならぬ。
 透谷は不覊《ふき》の生をもとめて却て拘束を免るるに由なかつた悲運の詩人である。その魂はすべての新しきものを喘《あえ》ぎ慕ひて、獨創の天地を見出さむとしたが力足らずして敗れた。劇詩評論小説詩歌――一つとして彼の試みざるものはなかつたのであるが、短日月に精力を費した結果、求めて遂に得られざる一つのものがあつた。それは新樣式である。透谷の文章詩歌に接して最も遺憾に思ふのはこの新樣式の缺如である。すべての舊き型を破り棄てむとして、この一重《ひとへ》の膜にささへられた彼の苦悶は如何ばかりであつたらう。彼は胸中に蓄へた最も善きものを歌はずして世を去つた。透谷は遂に不如意なる自個の肉體を破つたのであるが、詩人の玲瓏たる魂にとつては、因襲の肉塊を放却すること即ちすべての舊きものを破ることであつたのであらう。彼は眞面目なる努力の跡を世に殘して、新思潮の趨《おもむ》くべき道に悲しむべき先驅者となつたのである。彼は天成の詩人であつた。彼は一日として歌はずには居《を》られぬ詩人である。瞑想と神秘の色を染めた調子の深さは彼の性質の特異の點である。透谷はまた信念の人であつた。從つて迷うては魔を呼び、鬼氣人を襲ふ文を草し、神氣のしづまれる折々には閑窓に至理を談じた。彼はこれ等の多くを散文にものしたが、天成の詩人たる彼が詩歌に第一の新聲を出《いだ》すに難《かた》んじたとは運命の戯謔か、――悲痛の感に堪へないのである。
 透谷は要するにその素質に於て明治過去文壇最大の詩人である。透谷逝いて彼の詩魂のにほふところ、島崎氏の若々しい胸の血潮は湧き立つたことであらう。「若菜集」の新聲はかくして生れ出たのである。若き世の歌はここに始めて蘭湯《らんたう》の浴より出でゝ舊き垢膩《くに》の汚《けがれ》を洗ひ棄てたのである。
[#地付き](明治四十年十月「文章世界」〈文話詩話〉號)



底本:「明治文學全集 69 島崎藤村集」筑摩書房
   1972(昭和47)年6月30日初版第1刷發行
初出:「文章世界 〈文話詩話〉號」
   1907(明治40)年10月
入力:広橋はやみ
校正:川山隆
2008年5月16日作成
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