これを棄て、謬《あやまつ》てここに横へたりしがごとし。もしその尾上《をのへ》に嘯《うそぶ》きたち、大海原のあなたを見わたさむか、雲と濤とあひ接《まじは》り、風は霧のごとく、潮は煙に似たる間を分けわく船の帆影は、さながら空なる星かと見まがふばかりなり。さては遠きに倦みたる眼を伏せて、羊腸《やうちやう》たる山路の草かげに嫋々《なよ/\》と靡ける撫子《なでしこ》の花を憐れむも興あるべし。やがて胸はその花のごとく燃ゆるをおぼえ、情《こころ》はかの帆影の星のごとく漾《ただよ》ふをわかざらむとす、そは佐用姫《さよひめ》の古事を憶ひいづればなり。姫が狭手彦《さでひこ》の船を見おくりつつ、ここより空しく領巾《ひれ》ふりけむと、かきくるる涙にあやなや、いづれを海、いづれを空、夢か現《うつつ》かのそれさへ識るの暇もなく、宛《あたか》も狂へるものの如くに山を下り、松浦川を渉りしをりのかたみ[#「かたみ」に傍点]とて、その川の畔に、姫が踏みしめし足かたの今もなほ石に凹《くぼ》めるがありといふ。
 狭手彦の軍を卒《ひき》ひて、任那《みまな》を鎮め、また高麗《こま》を伐《う》ちしことは書《ふみ》に見ゆ。すべてそのころの歴史の局面は、遠く、ひろく、三韓の野山を包み、干戈《かんくわ》つねに動きて止まず、任那の日本府また危からんとするの間に於て、悲壮なること、酸鼻なること、太だ鮮《すくな》しとせず。征討の軍の中には妻子をも具したり、悲さは独り佐用姫のところのみならむや。
 英雄(秀吉)の一喝をうけて、鳴く蝉の声を聴かずといはるる松原の中ほど、浜崎街道にのぞみて三軒茶屋の名を留むるがあり。千利休得意の茶を点じて豊太閤に薦めしところなりといふ。
 浜崎を過ぐれば、ただちに玉島川の水瀬の音のさざれに響くを聴く、流の清く澄めること比《たぐ》ひなし。勢《いきほひ》海に尽きたる山脈を分ちて、筑前国、怡土郡《いどごほり》と界す。かの「みこころしづめの石」もて知られたる深江《ふかえ》の里を隔つること僅かに数里。
 川のかなたに大村神社あり、広嗣の霊を祀る。彼れが時|政《まつりごと》の得失を指し、表を上《たてまつ》りて、僧の玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13]《げんばう》とともに除かんとせし吉備真備《きびのまきび》の創建なりといふ。天平十八年、太宰府観世音寺の、造営|就《な》るをつげ、その供養の日、導師をつとめたる紫袈裟の破戒法師(玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13])は、※[#「倏の犬のかわりに火」、第4水準2−1−57]《たちま》ち虚空の中に捉へ去られ、その首、のちに興福寺の唐院に墜ちたりと、世の人伝へて広嗣が霊の祟となす。太宰少弐(広嗣)この世に納《い》れられず、謬て賊名をとりきといへども、たちどころに軍卒一万余を嘯集せるがごとき、敗れて値嘉島《ちかしま》より船出したるがごとき、その胆略計るべからざるものあり。「われは大忠臣なり、神霊何ぞ棄てむや。」と罵《ののし》りしに至つては、意気のさかんなること焔のごとし。また松浦明神として祀られしなど、すこぶる天慶の将門に似たらずや。
 さあれ、玉島川といふ、鮎の名産あるを知るとともに、神功皇后の事蹟をおもひ起さずばあらず。川に沿ふて上ることしばらく、両岸の山あひ蹙《しじま》り、渓せまく、煙しづかにして、瀬のおと逾《いよ/\》たかし、南山の里に入れば緑なる阜《をか》の上に皇后の祠を拝するの厳かなるを覚ゆ。嵐うづまくところ、老樹の枝は魂あるもののごとく、さながら当年の金鼓の響を鳴すに通ふ。そが下にたてる「垂綸碑《すゐりんのひ》」は篆字《てんじ》はやく苔むして見ゆ。殿堂金碧の美なしとはいへ、おのづから粛穆《しゆくぼく》の趣あり。俯して谷川をのぞむ、皇后そのかみの卯月、河の中の磯に在《いま》して年魚《あゆ》を釣りたまひけるところ。「朕《われ》西のかた、宝の国を求めむとおぼす、もしことならば川の魚つりくへ。」と祈《の》みたまへる御声の朗かなるを、水脈《みを》しろく漲り落つる瀬のおとの高きがうちに聴くがごとき心地す。やがては、乙女の眉《まよ》びきのごと、はた天つ水影の押伏せて見ゆる向津国《むかつくに》も御軍の威に懼《おそ》れ服《まつろ》ひけむをおもふ時、われは端なくも土蜘蛛、熊襲《くまそ》なんどの栄えたりし古の筑紫に身をおくがごとくて、遽《すみやか》に神の御前を去りあへざりき。
 されどまた試みに憶良の歌を誦すれば、いとも優しき玉島川は歴史以外におのづから絶えせぬ情の水の清くしてゆるやかなるものあるべし。――

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松浦なる玉島川にあゆつると
   たたせる子らが家ぢしらずも
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何ぞそのこころの遠くして、その調のあがれることや。

     四

 唐津より西北、佐志をすぎ、唐房《
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