入るかたの空は黄金いろに燻りて名残の光のさまよへる、また匂はしき西風は一片の白雲を静かに漾《ただよ》はせたるよ。――詩人が愛づるを言ひしは、かかる折なりき。ながむるに卑しき念を脱し、塵の世のわづらひより避《のが》れ、理路の難《むづ》かしきを辿らで、暢《のびや》かなるこころは、たやすく自然の美もて装はれたる界《さかひ》の薫はしきあたりに到りうべく――ここに快楽の裡に包まれたる霊魂《たましひ》――燃ゆるがごとき胸に響く愛国のしらべ、――ミルトンの運命と、シドニイの最期《さいご》、――続いて歌ひけらく、「つひには彼等名士が面影をして、まのあたりに現ぜしめざれば飽かざらむとす。もし幾たびか、清き涙を揮ひつつ、歌のつばさもて天かけるそが姿をみかふる時しあれ、わが双の眼を封ぜむとするは|一種朗か《サムメロオヂヤス》なる|悲み《サロオ》にあらずや」と。
 明麗なる夏の夕の感慨まことにかくのごとし。暢美の景に対して熱誠をもとめ、闊達の気象のうちに涙をふくむもの。古《いにしへ》、国のために力を尽しし歌人の思想を汲み運命を偲び、そが韻律の朽せぬにほひを慕ふにあたり、おのづからなる感情は、正に「ほがらかなる悲み」ならむかし。神功皇后の大稜威、はた豊太閤の事蹟おほくこの松浦の地にかかはる、山光、水色ために異彩を添へ、神助を人事と及び天然とあひ経緯する歴史の偉観はすなはち大なる叙事詩なり。しかれども人や遂にむなしくその事を伝へて今日に到れるあひだ、歳月は一様の律調《リズム》を刻むといふものから、なほ時と代とによりて、その声の高低なくばあらざりき。しかも現今、その精神のますます発揚せられむとするとともに、東洋の前途いよいよ危し。そもや、わが「やまと民族」の運命はいかなるべき、日夜憂へて止まずといへども、これなほ過去を憂ふるごときものならむか。ながめ[#「ながめ」に傍点]麗はしく、こころ[#「こころ」に傍点]ひろやかなる松浦の天地は恰《あたか》も望を未来に属し、闊達の気象を修養すべきわが国民の胸懐に似たるものあり。かくて、われ憂ふるところのものありとすれば、「朗かなる悲み」の語は、移してわが感慨を表すに余あるをおぼゆ。
 石炭の唐津は既に特別輸出港の栄誉を担ひたり。鉄道の工事まさに就《な》らんとす、交通の便大に開くべきなり。さもあらばあれ、詩歌の唐津は、白雲と湖のにほひとのうちに埋れて、いかに大雅の士をまつことの久しきかをわれは知らざるなり。

     三

 満島より東、浜崎に到るのあひだ、松浦川と玉島川との挟《さしはさ》める一帯の海岸なるかな、そもそも何によりてかただちに人を魅するの力ある、さながら夢幻の境のごときもの、これ虹の松原!
 ある人、虹[#「虹」に傍点]の松原の称は二里[#「二里」に傍点]の松原の訛れるなりといふ。ああ、まことに二里[#「二里」に白三角傍点]の松原[#「松原」に白三角傍点]か――あにその数量に於て寸分の差違なきを得んや。しかり、われは唯里程の概算をうるの益あるよりも、寧ろ恍惚として、わが一歩をだに忘れむとするの楽を択ぶなり。天人の羽衣もて劫の石を撫づる[#「天人の羽衣もて劫の石を撫づる」に傍点]てふ譬喩《ひゆ》のいかに巧に歳月の悠久なる概念を与ふるかを知らば、おなじく「虹の松原[#「虹の松原」に白丸傍点]」と唱《うた》ひてこそ、はじめて尽ざる趣は感情の底より湧き来り、未だその地の真景に接せざるも、はやくその概相の瞭然たるものあらむ。
 近き海上に高島ありといへども、玄海灘の潮は殆ど遮るものなく押寄せ来り、極まるところ、玉島川及び松浦川の水とあひ激し、あひ待ちて、この海岸に最正しき沙線を撓《たわ》めたるなり。潮の色や青く、砕くる波や白し、いさご明かなり、松みどりなり、加ふるに東雲《しののめ》のむらさきと、夕映のくれなゐとは、波を彩り、沙《いさご》にうつり、もろもろの麗はしき自然の配色は恣に変幻するがごときも、しかも斎《つつま》しくこれを渚の弧線の上に繋ぎて、いみじくも優しき調和を見せたり。想へば恵まれたるながめなるかな、ただ要時《しばし》、中空にかかりぬべき虹の橋は、やがて常住の影をここにあらはすがごとし、そのかがやく欄干《おばしま》に凭《よ》りて、わが霊魂《たましひ》は無限の歓喜を受けたりき。
 以太利《いたりや》の風光にあくがれし詩人、シェレエが「ピサに近きカシネの松ばら」と題してものしたる歌の中に就きて、回想せし楽しき逍遥の日は「なよ風松が枝に巣ごもり、荒波海ぞこに歛《をさま》れりし」なり、われ虹の松原に遊べる折やまたかくのごとかりき。
 背後に屏風を畳《たた》むは、これ領巾振山《ひれふりやま》――虹の松原の絶景をして平板ならざらしむるはこれあり、うち見るところ、造化の作の中にありて極めて拙劣なるもの、擲《なげう》つて
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