はむとす。これら凡て濃《こまや》かなる自然の布置《ふち》は洵《まこと》に愛すべきものあり。
 呼子の市街を纏へる阜《をか》の半腹には、愛宕《あたご》、天満、権現、八幡などの諸殿堂、その他二三の寺院は緑樹のあひだに連り、かしこに朱《あけ》の欄干はその半勾をほのめかし、ここに苔しろき石燈はその数段をあらはし、全景のうへより見たるところ、おのづから一|幀《てい》の絵画を披《ひら》くに似て、いともうるはし。この阜のいただきに公園地あり、木の下道清く掃《はら》ひて、瀟洒なる茶亭を設く。呼子湾を圧するながめこころよし。ここよりは小川、加唐《かから》の島々をも指点しうるべく、東南の空はるかに筑紫富士をのぞむ。
 加部島には田島神社あり、狭依姫《さよりひめ》、湍津姫《たぎつひめ》、田霧姫《たごりひめ》、三柱の姫神を祀る、天平十三年の創営なり、大同元年祭祀料十六戸を付せられ、貞観元年従四位下を贈られ、元慶八年従三位に進み、明治維新の後、国幣中社たるもの。社境内に佐用姫神社の小祠あり、かの有名なる望夫石[#「望夫石」に傍点]を納めたり。姫、領巾振山を下り、松浦川を渉りここに到りて、船路はるけく灘の沖に連るところ、慕へる人の面影は見るあたはず、あだ波の寄せては返す小島の渚に転び伏し、声をのみて嘆けどもすべもなく、滂沱《ぼうだ》たる涙にあらはるる身は、さながら一塊の石と化したりきと伝ふ。
 また本社の拝殿に一の扁額をかかぐ、神庫に蔵《をさ》められし小鷹丸の艦材を刻めるものなり。この艦《ふね》、文禄征韓の役に用ひられ、迅速なること神のごとかりしかば、豊太閤あやしみて、これを神庫にをさめきといふ。一片の扁額、なほ当年の遺物たり。そも名護屋の古城趾は如何の観かある。
 呼子より殿の浦の背後を上り、やがて名護屋の渡りに下る湾頭きはまるところ更に入江をなし、あひせまれる両岸の崖は、影を清き潮に※[#「くさかんむり/(酉+隹)/れっか」、第3水準1−91−44]《ひた》す。涼風は漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《さざなみ》を吹きよせたり、渚のさざれは玉よりも滑かなり、眠れる渡守を呼び醒し悵然《ちやうぜん》として独り城山に対す。この時、「荒城臨古渡 落日満秋山」の感慨|荐《しき》りにうごくといへども、あにさばかり意気の銷沈したるものあらんや。
 さあれ、城山に登りて見る、本丸、二の丸、三
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