ろかみやま》の擅《ほしいまゝ》に奇趣を弄ぶあり、巉巌《ざんがん》むらがり立てるはこれ正に小耶馬渓《せうやばけい》。いにしへ大蛇あり、その箏《たかんな》のごとき巌に纏ふこと七巻半、鱗甲《りんかふ》風に揺《うご》き、朱を濺《そゝ》げる眼は天を睨む、時に鎮西八郎射てこれを殪《たふ》し、その脊骨数箇を馬に駄す、その馬重きに堪へず、嘶いて進まざりしところ、今に駒鳴峠《こまなきたうげ》の名を留めたり。
黒髪山の近くに源を発するもの、有田川あり、伊万里川あり、松浦川あり、その流域は「松浦あがた」のうち最主要なる部に属す。有田川は西南に流れて皿山を過ぐ。ここははやくより、磁器の製造をもて、その名世に布《し》く。いはゆる有田焼の名産を出すところなり。維新の前、藩侯の通輦《つうれん》あるや、毎《つね》に磁土を途に布きて、その上に五彩を施せしといふ、また以て、窯業《えうげふ》の盛なるを想ふに足るべし。
次に伊万里川は北に流れ、大河内の近くを過ぎ、伊万里町を貫き、有田川の末とおなじく、牧島湾に注ぐ。大川内は「御用焼」もて知られしところ、今はたゞ蕭条たる一部落の煙を剰すに過ぎず。伊万里町は殷賑《いんしん》なること昔時に及ばずといふ。ここより盛に陶磁器を輸出せし時代やいかなりけむ。ロングフェロオが「ケラモス」と題したる詩のうちに、世界の窯業地《えうげふち》としてその名をかずまへ、うるはしき詞もて形容せる数行の句は聊《いささ》か現今の衰勢を慰むるに足りなむか。町の一端に岩栗神社あり、孝元天皇第四の皇子を奉祀す。天平のむかし藤原広嗣一万余騎の兵を嘯集《せうしふ》し、朝命に乖《そむ》き、筑前、板櫃川《いたびつがは》に拠る、後やぶれて、松浦郡なる値嘉島《ちかのしま》に捕へらる。時の副将車、紀飯麻呂《きいひまろ》この地に到り、祭壇を設けて紀氏の祖を祀りしに創れりと伝ふ。因にいふ伊万里の名称は飯麻呂の転訛なりと、いかゞあるべき。
いかづち夕に天半《なかぞら》を過ぐ、烏帽子、国見の山脈に谷谺《こだま》をかへせしその響は漸く遠ざかれり、牧島湾頭やがて面より霽れたれども、退く潮の色すさまじく柩を掩ふ布のごとき雲の峯々の谷間に埋れゆくも懶《ものう》げなり。くしや、この黄昏の空より吹きおろす秋風は遽《にはか》に万点の火を松浦富士(越岳《こしだけ》)の裾野に燃しいでたる。焔は忽ち熾《さかり》なり、とみれば、また
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