因の然らしむるところと諦めるより詮術はない。
なほまた律格を考慮の中に入れゝば上述した語詞の疑問は更に大きくなるばかりである。これを要するに現代語は詩法の約束に依つてひき緊めるほど缺陷を暴露して來るのである。現代語で書く自由詩はそれ故に意識の有無に拘らず、それ自體の中に自壞作用を孕むものである。律格を棄て去つて、然も散文語を用ゐつゝ進んで散文にも就き難き自由詩は發想の範圍を狹くするのみで、技法の暢達もとよりなく、いぢけてしまふに不思議はない。これを自由詩運動の側から見れば始めからアマチユア作家の群を引寄せ過ぎて、それに危險な實驗を手離しにさせた憾が多い。最初の唱道には一面確かによい部分もあつたのであるが、後が頗る惡いのである。日本の藝術を冒涜するものは、古今共にこのアマチユア作家の群であつて、自由詩の三十年間に際立つた收獲のないのも、これをその極端な一例と考へたい。
私は今これ以上、水に乏しい頭を傾けて物を言ふのも憶劫である。ひよつとすると明日この行詰りが急に打開されるかも知れない。然しこれは主觀上の事で、客觀では何十年を經過した後かも知れない。實のところ私は絶望してゐるのである。
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