ないが、神と人との繋りに心を留めてみたからである。そしてその繋りによつて始められた文化を、古語の中から、或は又現に忘れられつゝある民間語の中から、探り出して、その暗示によつてわれ等が祖先の世界の面影を再現し、その生活を記述批判することも亦詩でなくて何であらう。
いづれにしても、言葉はその中にあつて淨瑠璃の役目をつとめるものである。それはアメノマヒトツノカミ、イシコリドメノミコトの精魂をこめて鑄た鏡よりも、更に曇りなく、更に不可思議なものである。言葉は民族的なものであるから、その闡明は民族精神によるところの批判であり、その批判はいかにも嚴しい。言葉は畢竟僞らぬものゝ隨一であらう。
爆彈のやうな詩を作るなら、眞に爆發するものであつて欲しい。それが若し不發に終るものならば、たとへ玩具にすぎぬとも、線香花火がまだ優つてゐる。その方が正直だからである。言葉を詩の爆彈に填充する火藥とすれば、その言葉の性質をも辨へず、調合をおろそかにすることは出來ないのであらう。それを怠つてゐたのでは、いくら擲つても爆發するはずがない。
さて、詩は爆彈に代るものであらうか。わたくしは第一にそれを疑ふ。
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