の夢を夢みて今日を破壞しようとするのは無謀でなくて何であらう。またその目的のために言葉を謬用することは、詩をも識らず、言葉にこもる民族精神にも徹せぬ所爲であらう。
 詩は今日の正夢であつてよいのである。今日の境涯には不平、怨嗟は絶えず起る。さればといつて、それ等も今日の夢であつてこそ、それ等に相應する表現價値がある。然るにその不平怨嗟の境涯を以て、明日のために企劃された不逞なる成心による爭鬪意識の對象となすとき、詩の本質は曲解されなくてはならない。詩は詩の埒の外に逸脱しなくてはならない。それに比ぶれば、詩が今日の惡酒に醉ひ痴れてゐても、その方がいくらよいか判らない。
 人生はこれを慰めてゆくべきものと諦められる。人生が慰められゝば個人もまた同時に慰められる。詩人はその間に立ちて、犧牲をさゝげ讚め言葉をまをす媒介者である。神と人との隔りを繋ぎとめるカムナギである。更にまた神慮にかなはんがために、世にもめでたき振舞をするワザヲギの民のたぐひである。
 詩人のつとめは、それより外にあらうはずがない。詩はかくの如くにして、神と人とのつながりから、自然に巧まれてうちあげられたものである。上は出雲國造神壽詞から下は三河萬歳の言葉にいたるまで、それが詩の一貫した方式である。
 詩はカムヨゴトである。それ故に、慰めの言葉、をかしき言葉、乃至は狂言綺語であることが、詩の正道にはづれたものとは決しられない。またかく云ふことが詩を蔑むとも考へられない。
 ダンテはその一世一代の詩篇に標するにデイヴイナ・コメデイア(神聖喜曲)といふ題を置いた。これには傳承もあることであらうが、ダンテがこの曲を書いた意圖は、彼が言葉の最高の司祭者として、底知れぬ人生、即ち民族精神の綜合的現實世界の前にカムヨゴトを申したことより外には、これを尋ね難い。この意味に於て、この曲は神慮を測り、且つ慰むる狂言綺語の一類であつたと云つても、決してその偉大さは妨げられない。かの穢を祓ひ縁喜を祝ふたぐひの言葉とその系統に於て異るところがあらうとは見られないからである。そのやうなあやのある言葉を邦語でカムヨゴト(神壽詞)と云ふ。神曲のコメデイアにそつくり當はまる言葉である。
 ダンテのカムヨゴトには、その至誠にかまけて神憑りがしてゐるところがある。そしてその言葉がほとほと神託の域に達してゐる。ダンテは明日の夢、理想の幻影のた
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