狂言綺語
蒲原有明

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(例)[#地から1字上げ](昭和十三年十二月 書物展望社刊)
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 諸君子のひそみに倣つて爆彈のやうな詩を書いて見ようと思はぬでもない。も少し穩かなところで、民衆詩あたりでも惡くはなからうと思はぬでもない。さうは思ふが、さてどうにもならない。
 格にはまつた詩も、格にはづれた詩も、いづれにしても、わたくしには今作れない。わたくしは言葉の探究に夢中になつてゐて、詩の作れぬわけをそれに託けてゐる。とは云へ、その探究は言葉を科學的に冷靜にぢりぢりと押へつけて行つて、その効果を擧げようと企てゝゐるやうなものではない。それにはまた別に人がある。
 わたくしは夢を見てゐるに過ぎない。ただこの機運に際し、多年言葉の修練を唱へてきた餘力を驅つて、言葉の奧に蟠る祕義に參してみたいと思ふばかりなのである。詩は作れないといつたが、こゝに別樣の意味に於て、なほ詩作はつづけられてゐる。さう思つて少しく慰めてみるのである。
 ダンテの神曲のことが不圖思考の表に上つてくる。氣儘に比較するのではないが、神と人との繋りに心を留めてみたからである。そしてその繋りによつて始められた文化を、古語の中から、或は又現に忘れられつゝある民間語の中から、探り出して、その暗示によつてわれ等が祖先の世界の面影を再現し、その生活を記述批判することも亦詩でなくて何であらう。
 いづれにしても、言葉はその中にあつて淨瑠璃の役目をつとめるものである。それはアメノマヒトツノカミ、イシコリドメノミコトの精魂をこめて鑄た鏡よりも、更に曇りなく、更に不可思議なものである。言葉は民族的なものであるから、その闡明は民族精神によるところの批判であり、その批判はいかにも嚴しい。言葉は畢竟僞らぬものゝ隨一であらう。
 爆彈のやうな詩を作るなら、眞に爆發するものであつて欲しい。それが若し不發に終るものならば、たとへ玩具にすぎぬとも、線香花火がまだ優つてゐる。その方が正直だからである。言葉を詩の爆彈に填充する火藥とすれば、その言葉の性質をも辨へず、調合をおろそかにすることは出來ないのであらう。それを怠つてゐたのでは、いくら擲つても爆發するはずがない。
 さて、詩は爆彈に代るものであらうか。わたくしは第一にそれを疑ふ。
 明日
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