つてゐたので、かういふ不便は免れ難かつた。
それに就て挿話がある。岩野泡鳴氏はあの負け嫌ひであるが、それも隨分とやかましいマラルメを擇んで、佛蘭西語の原本から直接に飜譯するといふ意氣込みであつた。「白鳥」もさうであるが、「泡」と題する詩が手始めで、をりからわたくしは同氏を訪問してゐたので、少しは字引の方の手傳をした。詩は短いが、一字一字洩れなく引くのであるから大變である。まづさういふ熱心さはそのころ誰しも抱いてゐたところである。佛蘭西語を全く知らないでゐて、マラルメを原詩から譯さうとするのは無謀である。笑はれてよいにはちがひないが、そこには眞劍味もあり強味もあつた。とても才人ぶつてはゆけなかつた時代である。
わたくしは與謝野寛の紹介で、内海月城氏に伴はれて、上田柳村氏を本郷西片町にはじめて訪づれた日はいつであつたか確にはおぼえてゐないが、新詩社が麹町番町にあつた頃のことである。それから幾回目かの訪問のをりに、柳村氏はルコント・ド・リイルを頻りに推獎して特にあの「眞晝」の一篇を讃嘆して、原詩を誦して、その作風に就てわたくしに親しく語るところがあつた。わたくしはその時の柳村氏の言葉を忘れずに魂に刻んでゐる。パルナッシャンの套語「無痛感」はどこか「非人情」の禪語に類するものがあり、マアテルリンクの神祕感と共に極めて東洋的である。これ等の詩人の思想がわたくしの觸れ易き心の養ひとなつたこと幾許なりやは量り難い。わたくしの詩にパルナッシャンの影響がありとすれば、それは全く柳村氏の鼓吹によるものである。
自然主義より象徴主義への推移といふことは、評論家によつてあまり唱へられないやうであるが、わたくしは前に述べたとほり、「審美新説」を讀んで感化されたことが先入主となつてゐる故か、この兩主義の關係をさういふ風に密接に考へてよいものと思つてゐる。ロマンチシズムから直ちにシンボリズムには移れぬわけである。この兩主義の推移といふことは例を擧げて見れば、ユイスマンスの一生の經路がこれをよく語つてゐる。この作者には鰊の有名な描寫がある。これなど自然主義的描寫に即する一面の歸結と見て然るべきものである。自然主義はつとめて感傷風の表現の混入を退けた。この事はかの高踏派の非人情とおのづから相通ずるところがある。考察の熱意と描寫の精緻とはこゝに起らざるを得ない。その熱意が幻想に入り、その精緻が滲
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