透して暗示となるとき、そこに感覺の交徹による象徴主義が生れるのである。然しながらわたくしの言はうとしてゐる所は、象徴主義に就てその解説を試ることではなかつたはずである。端的にわたくしの本意を明すならば、わたくしの詩は「春鳥集」より「有明集」に至るまで、上に擧げた諸種の思想の影響を蒙つてゐたといふことを述べて置きたかつたまでゝある。わたくしの作詩の動機に就いては「有明詩集」自註に大略書いておいたのを見てもらひたい。概して※[#「りっしんべん+予」、281−上−3]情的動機は幾許も無く、そこには却て「非人情」が附き纒つてゐる。純情をきおふこの頃の若い方々にはかゝることも飽き足らぬ一つであらう。
 わたくしの詩のごときは説明せよと要求せられても説明の仕樣のないものである。あらゆる思想の混亂であるとも云はれよう。然しその混亂にしても中心を得ればおのづから形をなすのである。その形をわたくしはいつも渦卷に喩へてゐる。卍字であり巴字である。生動の態がそこに備つてゐる。わたくしはさう信じて、これを純情風の直線式のものと對蹠的に觀てゐるのである。わたくしはこゝで純情的の詩風を貶すつもりは毛頭ない。ただどちらからも妥協の道はあるまいといふことを云つておけばよいのである。この渦卷式の流儀は今は全く詩壇に跡を絶つてゐる。尤ともわたくし以外に誰がこんな面倒な詩を書いたであらうか[#「書いたであらうか」は底本では「書いでたあらうか」]。それさへも確かなことは判らない。かやうなわけで、「有明集」は思想的にも表現的にも渦卷の中心をなすものであるが、その思想情念の傾向はいつでも東邦的であつた。わたくしの中に若しエキゾオチシズムが潜んでゐるとすれば、それは單に西歐への憧憬ではなくて、西歐でいみじくも採擇された新藝術主義を通じて、わたくしの生れ故郷なる東邦の文化に對する反省より以外のものではなかつたのである。
「有明集」は明治四十一年歳首に刊行したものである。わたくしはこゝで集の卷頭に添へた著者の小照について斷つておきたいことがある。著者は生れつき痩身で、未だ曾て[#「未だ曾て」は底本では「木だ曾て」]肉づいたといふことを知らない。然るにその寫眞に撮られたところを見れば、似ても似つかぬ肥滿さである。わたくしは必ずしも痩躯を庇ふものではないが、あれを見てゐると忽ち胸が惡くなる。實を言ふと、あれはその前年の
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