て、水晶《すいしよう》や何《なに》かと同《おな》じように自然《しぜん》に出來《でき》た石《いし》だとばかり信《しん》じてをりました。またある人《ひと》は石《いし》の矢《や》の根《ね》は天狗《てんぐ》の作《つく》つたものだと話《はな》してくれました。しかしそれは、今日《こんにち》から四十年程前《しじゆうねんほどまへ》のことでありまして、その頃《ころ》には日本《につぽん》のどこへ行《い》つても考古學《こうこがく》の博物館《はくぶつかん》といふものは一《ひと》つもなく、また石《いし》の矢《や》の根《ね》のようなものについても、説明《せつめい》した書物《しよもつ》がなかつたのであります。もしその頃《ころ》考古學《こうこがく》の博物館《はくぶつかん》があつたならば、石《いし》の矢《や》の根《ね》は自然《しぜん》に出來《でき》たものでもなく、また天狗《てんぐ》の作《つく》つたものでもなくて、古《ふる》い時代《じだい》に人間《にんげん》が作《つく》つたものであるといふことがわかつたことでありませう。しかし四十年後《しじゆうねんご》の今日《こんにち》でも、日本《につぽん》では殘念《ざんねん》ながら考古學博物館《こうこがくはくぶつかん》がどこにも設《まう》けられてゐませんから、皆《みな》さんはやはり先生《せんせい》に聽《き》くか、書物《しよもつ》を見《み》るかしなければ、それらについて知《し》ることの出來《でき》ないのは甚《はなは》だ遺憾《いかん》なことであります。
昨年《さくねん》私《わたし》がドイツを旅行《りよこう》して、ミュンヘンといふ町《まち》へまゐりました時《とき》、そこにある大《おほ》きい美術博物館《びじゆつはくぶつかん》の附近《ふきん》に、小《ちひ》さいけれども考古學博物館《こうこがくはくぶつかん》がありましたので見物《けんぶつ》に出《で》かけました。そこはわづか二《ふた》つか三《みつ》つしか部屋《へや》がなく、ほんとうに小《ちひ》さいもので、爺《ぢい》さんがたゞ一人《ひとり》、つくねんとして番《ばん》をしてゐました。その中《なか》へ私《わたし》がはひつて行《ゆ》くと、陳列棚《ちんれつだな》の陰《かげ》の方《ほう》に一人《ひとり》の少年《しようねん》がゐて、手帳《てちよう》を出《だ》して一《いつ》しょう懸命《けんめい》に見《み》たものについて筆記《ひつき》してゐました
前へ
次へ
全145ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
浜田 青陵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング