《と》りかへてもらひ、喜《よろこ》んで家《いへ》へかへりました。ところが翌日《よくじつ》厩《うまや》へ行《い》つてその赤馬《あかうま》を見《み》ますと、驚《おどろ》いたことには、それは土《つち》の馬《うま》でありました。これはへんなことだと、伯孫《はくそん》はゆうべの應神天皇《おうじんてんのう》の御陵《ごりよう》の所《ところ》へ行《い》つて見《み》ましたら、自分《じぶん》の乘《の》つてゐた馬《うま》は、御陵《ごりよう》の前《まへ》にある埴輪《はにわ》の土馬《つちうま》の間《あひだ》にをつて、主人《しゆじん》をまつてゐた[#「まつてゐた」は底本では「まつてるた」]ので、またびっくりしましたが、やうやくその馬《うま》と土馬《つちうま》と取《と》りかへて家《いへ》へつれて歸《かへ》つたといふ面白《おもしろ》いうそ[#「うそ」に傍点]のような話《はなし》であります。これはその時分《じぶん》河内《かはち》の役人《やくにん》から朝廷《ちようてい》へ報告《ほうこく》した事實《じじつ》でありまして、とにかく當時《とうじ》馬《うま》に乘《の》ることが行《おこな》はれてをり、また埴輪《はにわ》の馬《うま》が御陵《ごりよう》に立《た》つてゐたことを、われ/\に教《をし》へてくれる話《はなし》であります。
[#「第七十一圖 田邊伯孫譽田陵に馬を求む」のキャプション付きの図(fig18371_72.png)入る]
 馬具《ばぐ》のほかに、古墳《こふん》からたくさん出《で》るものは土器《どき》であります。しかし、この土器《どき》はごく古《ふる》い古墳《こふん》からは餘《あま》り發見《はつけん》せられず、石室《せきしつ》の出來《でき》た頃《ころ》からの古墳《こふん》にたくさん收《をさ》められてをり、一《ひと》つの墓《はか》から時《とき》には五六十《ごろくじゆう》も一度《いちど》に土器《どき》の出《で》て來《く》ることがあります。それらの土器《どき》の燒《や》き方《かた》は、前《まへ》に申《まを》した彌生式土器《やよひしきどき》に似《に》たところの赭《あか》い色《いろ》の軟《やはら》かい素燒《すや》きのものもありますが、たいていは鼠色《ねずみいろ》をした、ごく硬《かた》い陶器《とうき》とでもいへる燒《や》き物《もの》であつて、私《わたし》どもはこれをいはひべ[#「いはひべ」に傍点](祝部《いはひべ
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