》で造《つく》つた人間像《にんげんぞう》や動物《どうぶつ》の像《ぞう》を墓側《はかそば》に立《た》てる風俗《ふうぞく》を聞《き》いて、それを土《つち》で作《つく》ることに考《かんが》へついたのかも知《し》れません。この野見宿禰《のみのすくね》といふ人《ひと》は、あの相撲《すまふ》をはじめたといはれてゐる同《おな》じ人《ひと》であります。とにかく埴輪《はにわ》といふものが垂仁天皇《すいにんてんのう》の御代前後《みよぜんご》から始《はじ》まつて、四五百年《しごひやくねん》ぐらゐもつゞいたことは確《たしか》らしいのであります。この埴輪《はにわ》といふ言葉《ことば》の埴《はに》といふのは粘土《ねんど》といふことで、輪《わ》といふのは輪《わ》の形《かたち》に竝《なら》べることから出《で》た名前《なまへ》だといふことであります。それで私共《わたしども》が古墳《こふん》へ行《い》つても、埴輪《はにわ》の人形《にんぎよう》や、筒形《つゝがた》のものゝ破片《はへん》などが發見《はつけん》された時《とき》には、その塚《つか》がごく古《ふる》いこの時代《じだい》のものであることを、推定《すいてい》することが出來《でき》るのであります。
[#「第五十二圖 日本古墳埴輪人物」のキャプション付きの図(fig18371_53.png)入る]
 さて埴輪《はにわ》の筒形《つゝがた》のものは、墓《はか》の丘《をか》のまはり、時《とき》には堀《ほり》の外側《そとがは》の土手《どて》にも、一重《ひとへ》二重《ふたへ》あるひは三重《みへ》にも、取《と》り繞《めぐ》らされたのであり、また塚《つか》の頂上《ちようじよう》には家形《いへがた》や、それに似《に》た大《おほ》きな埴輪《はにわ》を置《お》いたものであることは、今《いま》までもわかつてをりましたが、人間《にんげん》や動物《どうぶつ》の埴輪《はにわ》などはどこへ立《た》てたものか、はっきりしたことが、わからなかつたのであります。ところが、最近《さいきん》に上野《かうづけ》の國《くに》のある前方後圓《ぜんぽうこうえん》の古墳《こふん》では、周圍《しゆうい》の堀《ほり》の外側《そとがは》、ちょうど墓《はか》の前《まへ》のところに、筒形《つゝがた》のものを長《なが》い間《あひだ》二重《ふたへ》に竝《なら》べ、その一部分《いちぶぶん》に人間《にんげん》や馬《うま
前へ 次へ
全145ページ中97ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
浜田 青陵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング