ませんが、それも現在《げんざい》では何《なに》も遺《のこ》つてゐませんからわかりません。それゆゑ私共《わたしども》が貝塚《かひづか》を掘《ほ》つたり石器《せつき》の散《ち》らばつてゐる所《ところ》を掘《ほ》つてゐますと、その下《した》から石器時代《せつきじだい》の人間《にんげん》の骨《ほね》が出《で》て來《く》るので、初《はじ》めてそこが墓地《ぼち》であつたことが知《し》られるのであります。このような墓場《はかば》も今《いま》から十年前《じゆうねんぜん》まではよくわからなかつたのでありますが、だん/″\わかつて來《き》て各地《かくち》において續々《ぞく/\》發見《はつけん》されてまゐりました。陸前松島《りくぜんまつしま》の宮戸島《みやとじま》だとか、三河《みかは》の吉胡《よしこ》だとか、河内《かはち》の國府《こふ》だとか、備中《びつちゆう》の津雲《つぐも》だとか、肥後《ひご》の阿高《あこう》などでは、ずいぶんたくさん人間《にんげん》の骨《ほね》が出《で》て、ある一《ひと》つの場所《ばしよ》からは百體《ひやくたい》三百體以上《さんびやくたいいじよう》の骨《ほね》が、一間《いつけん》ほどの距離《きより》を置《お》いて竝《なら》んでゐるといふようなあり樣《さま》であります。石器時代《せつきじだい》の墓場《はかば》があり/\とこの世《よ》の中《なか》に現《あらは》れたわけで、發掘《はつくつ》に行《い》つた私共《わたしども》も實《じつ》に驚《おどろ》いたものでした。そして、それらの人間《にんげん》の骨《ほね》はほとんど完全《かんぜん》に、指先《ゆびさき》の骨《ほね》まで遺《のこ》つてゐる場合《ばあひ》がすくなくないのであります。かへって後《のち》の時代《じだい》の大《おほ》きな古墳《こふん》で、石棺《せきかん》の中《なか》に入《い》れた人間《にんげん》は骨《ほね》まで腐《くさ》つてゐるのが普通《ふつう》でありますのに、この棺桶《かんをけ》もなく土中《どちゆう》に埋《うづ》めた人間《にんげん》の骨《ほね》が、よく遺《のこ》つてゐるのは一見《いつけん》不思議《ふしぎ》に感《かん》ぜられますが、それは棺《かん》の中《なか》は空氣《くうき》が侵入《しんにゆう》して腐《くさ》り易《やす》いが、直接《ちよくせつ》に土中《どちゆう》に埋《うづ》める時《とき》は空氣《くうき》が入《い》り難《
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